塩田剛三(しおだ ごうぞう、1915年9月9日 - 1994年7月17日)
東京府四谷区(現・東京都新宿区四谷)出身の武道(合気道)家である。身長154cm、体重46kgと非常に小柄な体格ながら「不世出の達人」と高く評価され、「現代に生きる達人」「生ける伝説」とも謳われた。
1915年(大正4年)9月9日、医師・塩田清一の次男として生を享ける。本名・塩田剛(しおだたけし)。
新宿区立四谷第六小学校時代から剣道・柔道を習い、旧制東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)5年の時には、講道館柔道三段位を取得していた。
1932年(昭和7年)、18歳の時、府立六中校長の誘いで植芝盛平の営む植芝道場を見学。その際、植芝に手合わせを挑んで一瞬で投げ飛ばされ、即日入門を決意する。これ以後、内弟子時代も含めて約8年間、植芝のもとで修行に励んだ。その後拓殖大学を卒業。
1941年(昭和16年)から、親交の深かった畑俊六の秘書として、台湾、中国、ボルネオなど各地に派遣され、それぞれの地で勤務の傍ら合気道の普及に努める。
1946年(昭和21年)、帰国。茨城県岩間に居を構えていた植芝の下で、再び修行に打ち込んだ。
1955年(昭和30年)7月、ライフ・エクステンション(長寿会)主催の「日本総合古武道大会」において演武を披露し、同大会最優秀賞を受賞する。これにより、社会の合気道への関心は急速に高まっていった。
1956年(昭和31年)、政財界の後押しもあり、「合気道養神会」を結成して会派・養神館合気道を立ち上げ、道場を新宿区筑土八幡に設立した。
1961年(昭和36年)、植芝より合気道九段の免状を受ける(当時最高位)。植芝より直々に授与される免状は、これが最後になる。
1962年(昭和37年)、ロバート・ケネディ夫妻が養神館道場に来館。
1965年(昭和40年)、常陸宮夫妻、アレクサンドラ王女の前で演武。
1983年(昭和58年)、国際武道院より範士号をうける。
1985年(昭和60年)、国際武道院より合気道十段をうける。
1987年(昭和62年)、徳仁親王(現在の皇太子)が来館。
1988年(昭和63年)、国際武道院より合気道名人位をうける。

1990年(平成2年)、全日本養神館合気道連盟、国際養神会合気道連盟を設立。国内だけでなく欧米諸国に至るまで、合気道の普及を進めていった。
1994年(平成6年)7月17日、死去。78歳没。
塩田の遺した養神館合気道は、現在も国内をはじめ、世界各国で後進に受け継がれている。
時折、超人的としか表現のしようがない塩田の演武について「あんな事が出来るはずがない。ヤラセではないか。」と非難する意見が上がる。しかし、セミナーなどで実際に塩田と手を合わせた者からは、その技に対する否定的な意見は少ない。格闘家・岩倉豪は、セミナーで塩田に挑戦して左肩を外される重傷を負い、この時のことを「あれは超能力でもやらせでもなく、人体の構造を理解した本当の技術だ」と振り返っている。
合気道の理合について、師匠・植芝盛平が古事記や神道の用語を用いた難解・抽象的な説明をしていたのに対して、塩田は「中心力」「スピード・タイミング」と言った用語を使ってより分かりやすい説明を心がけた。また短期間で合気道の基本的な動きを身に付けられるよう、当時警視庁で指導していた高弟の井上強一と共に、6種の基本動作と構えを制定した。
戦後岩間で稽古に励んでいた塩田は、当時「神中組」を経営していた田中清玄に誘われて秘書となり、同じ時期ストライキに悩まされていた日本鋼管に出向いて社員・警備員に合気道を指導した。この時に得た収入や政財界との人脈が後の養神館設立に大いに役立ったが、一方で盛平・吉祥丸に何も言わずに岩間を去ったため、後年まで吉祥丸との間にしこりを残すことになる。
ロバート・ケネディ夫妻の前で行った演武では、塩田の強さを疑ったケネディの申し出によって同行していたボディーガードと手合せを行い、これを圧倒している(この時の様子は映像にも記録されている)。ケネディは後年、この時の様子について、「私のボディーガードがその小柄な先生に立ち向かっていったところ、まるで蜘蛛がピンで張り付けられたように、苦もなく取り押さえられた。その後でボディーガードは 『今朝は食事をしてこなかったものですから』と言ってはいたが、食事をしてきたら勝てたとは言わなかった」と回顧録「世界訪問旅行」に記している。
植芝の門下生になった後、塩田は反射神経を鍛えるため、水槽の中を泳ぐ金魚の動きに合わせて左右に動くという訓練を8年間に渡って続けていた。その結果、塩田は超人的な反射神経と集中力を体得、視界から消えるとまで評された体捌きを完成させたと言う。反射神経にまつわる逸話は多く、自動車にはねられそうになった瞬間無傷でかわしてのけたという証言も残っている。
「呼吸力を出すためには足の親指を地面に食い込ませるように立たなくてはならない」という持論を持ち、高弟安藤毎夫の証言によれば、塩田が靴を履いた状態で玉砂利の上を歩いたときの足跡は親指にあたる部分が特にへこんでいたという。
自らの技について塩田は、「実戦では当身が七分で技(投げ)三分」というモットーを師・植芝の教えとして度々語っていた。演武会においても、投技や組技だけでなく、相手の喉を指一本で突いて悶絶させたり、後ろからタックルしてきた相手に肩をぶつけて吹き飛ばすといった、多彩な当身技を披露している。
ある時、弟子に「合気道で一番強い技はなんですか?」と聞かれ、塩田は「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と答えたという。塩田自身は『日常、それ即ち武道』を信条としており、普段普通に道を歩いている時でも一切の隙が無かったと言われているが、生前弟子に対して「人が人を倒すための武術が必要な時代は終わった。そういう人間は自分が最後でいい。
これからは和合の道として、世の中の役に立てばよい」と語り、護身術としての武道の意義を説いていた。
柔道家・木村政彦は、拓殖大学の後輩に当たる。青年時代の木村はその実力から『拓大最強の男』と呼ばれ、「腕相撲では負けた事が無い」と豪語していた。それを聞いた塩田は腕相撲で木村に挑戦し、3回対戦して2回勝利したという。また、極真会館創設者・大山倍達も拓殖大学の後輩に当たり、その大山と共に太気拳創始者・澤井健一が養神館本部道場に見学に訪れたこともある。
前述の大山・澤井の他にも、プロレスラーの前田日明、ボクシングのマイク・タイソン、空手家の金澤弘和が養神館道場を訪れ、塩田の神技を高く評価した。
漫画『グラップラー刃牙』に登場する柔術家・渋川剛気の原型となった人物としても知られる。これは作者の板垣恵介が、塩田の内弟子であった三枝誠の自衛隊時代の友人であった縁から、生前の塩田と親交があったことに由来している。また板垣は、塩田の自伝「合気道人生」において、本名の板垣博之名義で挿絵を担当している。
板垣は、自身の著書で塩田の人となりについて、「才気のカタマリ」「爆笑した顔に狂気を感じた」「体中が地雷原のような人」と評している。また、板垣がある中国武術家と立ち合って惨敗した際、塩田に「その程度で済んで運がよかったと思え。二度と遊び半分の軽い気持ちで立ち合いに臨むな」と苦言を呈されたという。この言葉について板垣は「俺のところに道場破りに来たらその程度じゃ済まさないぞ、ということなのだろう」と語っていた。
作家の増田俊也は自著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の中で塩田と木村政彦の関係を親友と書いている。塩田は先に拓大予科に入学していたが2年間の内弟子生活で休学していたので同期として授業を受けていたのだ。2人は非常に仲が良かった。この作品は、塩田を柔道側からの新しい視点でとらえていて非常に興味深い資料である。