起源には諸説があるが、一般には沖縄固有の拳法「手(ティー)」に中国武術が加味され、さらに示現流など日本武術の影響も受けながら発展してきたと考えられている。
空手は、大正時代に沖縄県から他の道府県に伝えられ、さらに第二次大戦後は世界各地に広まった。現在では世界中で有効な武道、格闘技、スポーツとして親しまれている。現在普及している空手は、試合方式の違いから、寸止めルールを採用する伝統派空手と直接打撃制ルールを採用するフルコンタクト空手に大別することができる。
今日の空手は打撃技を主体とする格闘技であるが、沖縄古来の空手には取手(トゥイティー、とりて),掛手(カキティー、かけて)と呼ばれる関節技や投げ技や掛け掴み技も含んでいた。
また、かつては空手以外に棒術、釵術、ヌンチャク術といった武器術も併せて修行するのが一般的であった。沖縄では現在でも多くの沖縄系流派が古来の技術と鍛錬法を維持しているが。最近の本土系の流派では、失伝した技を他の武術から取り入れて補う形で、総合的な体術への回帰、あるいは新たな総合武道へ発展を目指す流派・会派も存在する。
起源
久米三十六姓輸入説
那覇の久米村(クニンダ、現・那覇市久米)に、1392年、当時の明の福建省から「閩(ビン)人三十六姓」と呼ばれる職能集団が移住してきたとされる。彼らは琉球に先進的な学芸、技能等をもたらしたが、この時、空手の起源となる中国拳法も同時にもたらされたとする説。ただし当時は中国でも拳法が未発達だったことが知られており今日ではこの説に疑問を呈する見解もある。同じ中国伝来説に、禁武政策以降にもたらされたとする「慶長輸入説」や『大島筆記』の記述を元に公相君が伝えたとする「大島筆記説」等もある。
「舞方」からの発展説
舞方(メーカタ、前方とも)は、琉球舞踊の一種である。沖縄の田舎には舞方と呼ばれる音曲にあわせて踊る武術的な舞踊があり、戦前まで各地に見られた。また、日本の「奴(やっこ)」のように、舞踊行列において前払いをする者は前方(メーカタ)と呼ばれ、行列の先頭で音曲に合わせて空手のような武術的な踊りをしていたともいう。こうした武術的要素をもった舞方から「手(ティー)」が生まれ唐手へと発展した、ないしは舞方の中に唐手発達以前の「手」の原初的姿が残されている、とする説。安里安恒やその弟子の船越義珍がこの説を唱えている。
琉球の沖縄本島で空手が発展した理由として、従来言及されてきたのが、二度にわたって実施されたという禁武政策である。一度目は尚真王(在位1476年 - 1526年)の時代に実施されたというもので、このとき、国中の武器が集められて王府で厳重に管理されるようになった。二度目は1609年(慶長14年)の薩摩藩による琉球侵攻後に実施されたという禁武政策である。二度の禁武政策を通じて、武器を取り上げられた人々が、薩摩藩に対抗するために空手を発展させたとする説が、従来、歴史的事実であるかのように繰り返し言及されてきた。
しかし、禁武政策と空手発展の因果関係については、近年、これを疑問視する研究者が少なくない。例えば、尚真王の禁武政策とされるものについては、従来「百浦添欄干之銘」(1509年)にある「もっぱら刀剣・弓矢を積み、もって護国の利器となす」という文言を、「武器をかき集めて倉庫に封印した」と解釈してきたが、近年では沖縄学の研究者から「刀や弓を集めて国の武器とした」と解釈するのが正しいとの指摘がなされている[20]。
また、薩摩藩の実施した禁武政策(1613年の琉球王府宛通達)も、帯刀など武器の携帯を禁じただけで、その所持まで禁じたものではなく、比較的緩やかな規制であったことが判明している。この通達は「一、鉄砲の所持禁止。二、王子・三司官・士族の個人所有武器の保有は認める。三、武器類の修理は在番奉行所を通して薩摩にて行うこと。四、刀剣類は在番奉行所に届け出て認可を受ける事」という内容であり、武器の所持(鉄砲を除く)やその稽古まで禁じるものではなかった[21]。実際、薩摩への服属後も、琉球の剣術、槍術、弓術などの達人の名は何人も知られている。また、素手で鉄砲や刀などの武器に対抗するという発想そのものが非現実的であり、このような動機に基づいて琉球士族が空手の鍛錬に励んだとは考えられない、との指摘もある
最近の研究によれば、最初に本土へ唐手を紹介したのは、明治時代に東京の尚侯爵邸に詰めていた琉球士族たちであったと言われている。
彼らは他の藩邸に招かれて唐手を披露したり、揚心流や起倒流などの柔術の町道場に出向いて、突きや蹴りの使い方を教授していたという。
また、1908年(明治41年)、沖縄県立中学校の生徒が京都武徳会青年大会において、武徳会の希望により唐手の型を披露としたとの記録があり、このとき「嘉納博士も片唾を呑んで注視してゐた」というように、本土武道家の中にはすでにこの頃から唐手の存在に注目する者もいた。
しかし、本格的な指導は、富名腰義珍(後の船越義珍)や本部朝基らが本土へ渡った大正以降である。1922年(大正11年)5月、文部省主催の第一回体育展覧会において、富名腰は唐手の型や組手の写真を二幅の掛け軸にまとめてパネル展示を行った。
この展示がきっかけで、翌6月、富名腰は嘉納治五郎に招待され、講道館で嘉納治五郎をはじめ200名を超える柔道有段者を前にして、唐手の演武と解説を行った。富名腰はそのまま東京に留まり、唐手の指導に当たることになった。
同じ頃、関西では本部朝基が唐手の実力を世人に示して、世間を驚嘆させた。同年11月、たまたま遊びに出かけていた京都で、本部はボクシング対柔道の興行試合に飛び入りで参戦し、相手のロシア人ボクサーを一撃のもとに倒した。当時52歳であった。この出来事が国民的雑誌『キング』等で取り上げられたことで、本部朝基の武名は一躍天下に轟くことになり、それまで一部の武道家や好事家のみに知られていた唐手の名が、一躍全国に知られるようになったと言われている。
本部は同年から大阪で唐手の指導を始めた。富名腰や本部の活動に刺激されて、日本本土では大正末期から昭和にかけて大学で唐手研究会の創設が相次いだ。
また、本部のこの試合の勝利は、屋部憲通のハワイ唐手実演会(1927年)でも紹介され、海外での初期の唐手宣伝にも一役買った。ジェームズ・ミトセやエド・パーカー(エルヴィス・プレスリーの武術師匠)等、ハワイ出身のアメリカン・ケンポー(ケンポー・カラテ)の創始者達が、本部朝基との伝系のつながりを主張しているのも、こうした宣伝が影響を及ぼしたと考えられる。
沖縄では、大正13年(1924年)、本部朝勇が会長となって「沖縄唐手研究倶楽部」が設立され[32]、さらに大正15年(1926年)には「沖縄唐手倶楽部」へと発展しながら、在沖縄の唐手の大家が一堂に会して、唐手の技術交流と共同研究の試みが行われた。参加者は花城長茂、本部朝勇、本部朝基、喜屋武朝徳、知花朝信、摩文仁賢和、宮城長順、許田重発、呉賢貴など、そうそうたる顔ぶれであった。
昭和に入ると、摩文仁賢和、宮城長順、遠山寛賢らも本土へ渡って、唐手の指導に当たるようになった。1933年(昭和8年)、唐手は大日本武徳会から、日本の武道として承認された。
これは沖縄という一地方から発祥した唐手が晴れて日本の武道として認められた画期的な出来事だったが、一方でこの時、唐手は「柔道・柔術」の一部門とされ、唐手の称号審査も柔道家が行うという屈辱的な条件を含んでいた。
1929年(昭和4年)、船越義珍が師範を務めていた慶應義塾大学唐手研究会が般若心経の「空」の概念から唐手を空手に改めると発表したのをきっかけに、本土では空手表記が急速に広まった。さらに他の武道と同じように「道」の字をつけ、「唐手術」から「空手道」に改められた。
沖縄でも1936年(昭和11年)10月25日、那覇で「空手大家の座談会」(琉球新報主催)が開催され、唐手から空手へ改称することが決議された。このような改称の背景には、当時の軍国主義的風潮への配慮(唐手が中国を想起させる)もあったとされている[33]。なお、空手の表記は、花城長茂が、明治38年(1905年)から使用していたことが明らかとなっている。
本土の空手は、大日本武徳会において柔道の分類下におかれていたこともあり、差別化のために取手(トゥイティー)、掛け手(カキテイー)と呼ばれた柔術的な技法を取り除き、打撃技法に特化した。また、併伝の棒術や節棍術(ヌンチャクなど)などの武器術も取り除かれた。松涛館空手に見られるように、型の立ち方や挙動を変更し、型の名称も、新たに日本風の名称に改める流派もあった。
さらに、沖縄から組手が十分に伝承されなかったため、本土で新たな組手を創作付加し、こうして現在の空手道が誕生した。これらの改変については、本土での空手の普及を後押ししたとの評価がある一方で、空手の伝統的なあり方から逸脱したとの批判もある。
流派の乱立
流派、会派などが存在しなかったと言われていた空手界であったが、大日本武徳会を機に流派、会派など増え始めていった。
1948年(昭和23年)、東京では船越義珍の門弟たちによって松濤館流最大会派である日本空手協会が結成され、1957年(昭和32年)4月10日、日本空手協会を社団法人として文部省が認可した。
しかし1958年(昭和33年)には早くも空手の試合化を否定する廣西元信たちが戦前からの松濤会を復活させ、独立していった。分裂、独立については、ほかの流派も事情は似たり寄ったりであった。遠山寛賢のように、無流派主義を標榜する空手家もいたが、多数にはなり得なかった。
全空連の試合規則、いわゆる「寸止め(極め)」ルールに対する不満などから、北朝鮮出身の大山倍達の極真会館に代表されるようなフルコンタクト空手という、直接打撃制スタイル(中には顔面攻撃を認める流派もある)を採用する会派もあらわれ、一大勢力を形成するようになった。
しかし、大山倍達が存命中は一枚岩と言われていた極真会館もまた、大山の死後、極真を名乗る複数の団体に分裂したり独自会派を立ち上げる者が多数出現することになる。そして、極真出身の大道塾空道に代表されるような、打撃技に特化された現在の空手へのアンチ・テーゼとして、空手に関節技や投げ技を取り入れて、かつての空手がそうであった、総合武道の姿へと復元を目指す会派などもあらわれた。
今日の空手流派は本土に伝来して以降のものである。最古の空手流派は、本部朝基が大正時代に命名した日本傳流兵法本部拳法(本部流)が、文献上確認できるものとしては最も古い。
船越義珍の松濤館流も実質的には同程度古いが、この流派名は戦後の通称であり、船越自身は生涯流派名を名乗らなかった。昭和に入ってからは、宮城長順が昭和6年(1931年)に剛柔流を名乗っている。その後は、知花朝信(小林流・1933年)、摩文仁賢和(糸東流・1934年)、小西良助(神道自然流・1937年)、大塚博紀(神州和道流空手術・1938年)、保勇(少林寺流空手道錬心舘・1955年)、菊地和雄(清心流空手道・1957年)と、流派の命名が続いた。
古伝空手
1990年代以降、伝統派空手の内部から空手の近代化に批判的な論客(柳川昌弘、新垣清、宇城憲治など)が現れ、彼らの著作がベストセラーになるようになった。
特に2000年以降、甲野善紀らによる古武術ブームの影響もあり、古伝(古流)空手への回帰論は空手言論界に大きな影響を及ぼした。こうした研究者のすべてが古伝(古流)を標榜しているわけではないが、近代空手と一線を画する論調が相互作用して一つの潮流を形成している。
古伝(古流)空手では、型の再評価や型分解の見直し、また競技化される以前の組手にあった技法――急所攻撃、取手(関節技、投げ技)の探究、さらには「気」、丹田といった東洋的な概念の再評価が行われている。
古伝(古流)空手の流派には、湖城流、本部流、心道流などがある。他に沖縄本島の松林流喜舎場塾、日本本土の空手道今野塾、清心館大久保道場(全日本清心会)などの古流稽古スタイルの会派・道場がある。
全空連空手
一般には本土空手を指す場合が多い。全空連に加盟し、空手の競技化、スポーツ化に力点をおいている。全空連が寸止めルールを採用していることから、寸止め空手と呼ばれることも多い。競技空手、スポーツ空手とも呼ばれる。
本土空手は、剛柔流、松濤館流、和道流、糸東流が規模の上から一般に四大流派と呼ばれ、よく知られている。
本土空手は、大学空手を中心に発展してきた。それゆえ、より若者向けに型や組手も沖縄より全体的に力強く、ダイナミックで、見栄えがするように変化してきている。しかし、近年では生涯武道という観点から、また古伝空手ブーム等の影響もあって、近代化への反省も見られる。他に本土という土地柄、柔術など日本武術との融合や影響が見られるのも特徴である。
近年では、勝負の判定を従来よりスポーツライクなものとしたポイント制や、拳サポーターの色分け(青と赤。従来は両者が白で、赤と白の区別は赤帯を用いていた)、細かなものでは審判の人数や立ち位置など、ルールにかなりの見直しが施されている。これらはオリンピック種目化を目指しての革新と見られるが、スポーツ化したとき見た目にはさほど違いのないテコンドーが既にオリンピック種目となっているため、実現は容易ではないと考えられる。
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