合気道(あいきどう・合氣道)武道家・植芝盛平が大正末期から昭和前期にかけて創始した武道。植芝盛平が日本古来の柔術・剣術など諸武術を研究し、独自の精神哲学でまとめ直した、体術を主とする宗教と武道を合わせた不思議な体系を持っている。
王仁三郎の勧めで京都の綾部に「植芝塾」道場設立、開墾・建設作業に従事しつつ甥の井上鑑昭(親英体道の創始者)と共に「合気武術」を教団内で指導する。1924年(大正13年)出口と共にモンゴルに渡り宗教国家建設を目指し活動するも失敗(「パインタラ事件」)、数々の死線をくぐった後帰国、1925年(大正14年)綾部での修行中「突如黄金の光に包まれ宇宙と一体化する」という幻影に襲われる神秘体験に遭遇(「黄金体験」)、「気の妙用」という武道極意と「万有愛護」という精神理念に達する。
創始者 植芝盛平とは
1915年(大正4年)[11]31歳。2月に所用で訪れた遠軽の旅館で武術家・大東流の武田惣角に出会い、その技に衝撃を受け入門、宿泊を一月延長し指導を受ける。豪力で鳴らした盛平だったが、当時54歳・身長150cmに満たない小柄な惣角の多彩な極め技に抗う術も無く捻じ伏せられたという。
1916年(大正5年)33歳。白滝に道場を設けて惣角を招き、村の有志十数人と共に熱心に学び「秘伝奥儀」の免許を授かる。盛平は惣角に献身的に仕え、惣角の巡回指導にも随行、警察署長や裁判所判事など地位の高い人物が多かった惣角の門人を代理指導することもあり、「判事を教える有能な人物」として評判になったという。
1917年(大正6年)34歳。5月白滝に山火事を発端とする大火災が発生、開拓地はほぼ全焼という大被害を受ける。盛平は住民を励まし不眠不休で復興に東奔西走した。7月長男武盛出生。
1918年(大正7年)35歳。推されて上湧別村会議員に当選、名実共に土地の名士となる。
1919年(大正8年)36歳。父与六危篤の報に帰郷を決意、白滝の土地家屋など全財産を武田惣角に譲渡し妻子を連れ北海道を離れる。帰郷途中の汽車内で宗教団体大本の実質的教祖であった出口王仁三郎の噂を聞き、与六平癒の祈祷を依頼するため京都府綾部に立ち寄り王仁三郎に邂逅、その人物に深く魅せられる。
この間に与六死去(享年76)、物心両面の庇護者であった父を失い憔悴した盛平は1920年(大正9年)37歳、一家を率い綾部に移住、大本に入信する。王仁三郎はこれを喜び、盛平を自らの近侍とし「武道を天職とせよ」と諭した。盛平は王仁三郎の下で各種の霊法修行に努めるが、同年8月長男武盛(3歳)9月次男国治(1歳)を病により相次いで亡くす。秋頃王仁三郎の勧めで自宅に「植芝塾」道場を開設。
1921年(大正10年)38歳。2月に第一次大本教弾圧事件が起こるが、植芝塾は波及を免れる。6月、三男吉祥丸誕生。
1922年(大正11年)39歳。当時の大本には陸海軍の軍人も多く出入りしており、彼らも盛平の門人となっていた。同年春、綾部に惣角が妻子と共に訪れ、盛平は海軍中将浅野正恭ら門下の軍人たちと共に指導を受ける。9月、目録「合気柔術秘伝奥儀之事」及び「大東流合気柔術教授代理」の資格を授けられる。
この時から王仁三郎の命名により、自らの武術を「合気武術」と称し、また武道としての精神的な裏付けを求め「言霊」の研究に没頭する。
同年、大本の食糧自給体制の責任者「農園世話係」に就任、開墾農作に従事しつつ武道修行に励む生活方式「武農一如」を実践する。7月母ゆき死去(享年71)。
1924年(大正13年)41歳。2月、満蒙の地に宗教国家の建設を目指す王仁三郎に随伴し出国、満州へ渡る。関東軍特務機関斡旋の元、満州の支配者・張作霖配下の馬賊・盧占魁(ろ せんかい)の率いる「西北自治軍」と共にモンゴルへ向かうが、盧の独走を疑った張の策謀により幾度も死の危機に晒される。この時の銃撃戦で、敵弾が来る前に「光のツブテ」が飛んでくるのが見え、それを避けることで敵弾から逃れるという体験をした。
6月吉林省パインタラ(通遼)にて、張の意を受けた支那中央政府官兵・奉天軍によって捕らえられ、盧及びその部下はことごとく銃殺。王仁三郎・盛平ら日本人一行6人も銃殺場に引き出され死を覚悟する。しかしたまたま王仁三郎らの遭難に気付いた日本人旅行者が日本領事館に通報、パインタラに駆けつけた日本領事館員の交渉により処刑は直前で中止され、九死に一生を得る(「パインタラ事件」または「パインタラの法難」)。王仁三郎らは日本領事館に引き渡され、7月本国に送還された。
6月吉林省パインタラ(通遼)にて、張の意を受けた支那中央政府官兵・奉天軍によって捕らえられ、盧及びその部下はことごとく銃殺。王仁三郎・盛平ら日本人一行6人も銃殺場に引き出され死を覚悟する。しかしたまたま王仁三郎らの遭難に気付いた日本人旅行者が日本領事館に通報、パインタラに駆けつけた日本領事館員の交渉により処刑は直前で中止され、九死に一生を得る(「パインタラ事件」または「パインタラの法難」)。王仁三郎らは日本領事館に引き渡され、7月本国に送還された。
第一次大本事件によって大本の活動が制限される中、王仁三郎は大長編叙事詩『霊界物語』の口述に力を注いでいた。特別篇「入蒙記」は満蒙探検-バインタラ事件の体験記であり、植芝は「守高」の名前で登場する。
現地人の前で柔術の実習と実技を行って人気を集めたが、強すぎて悪人と誤解されることもあったという。
現地人の前で柔術の実習と実技を行って人気を集めたが、強すぎて悪人と誤解されることもあったという。
1925年(大正14年)42歳。春頃、綾部にて剣道教士の海軍将校と対戦しこれを退ける。この時も相手の木剣が振り下ろされるより早く「白い光」が飛んで来るのを感知して相手の攻撃を素手でことごとくかわし、将校は疲労困憊し戦闘不能に陥ったという。その直後盛平は井戸端での行水中に、「突如大地が鳴動し黄金の光に全身が包まれ宇宙と一体化する」幻影に襲われるという神秘体験に遭遇、「武道の根源は神の愛であり、万有愛護の精神である」という理念的確信と「気の妙用」という武術極意に達する。(「黄金体体験」)
1937年(昭和12年)54歳。12月5日、嘉納治五郎の紹介で、弟子の赤沢善三郎と共に署名血判のうえ鹿島新当流宗家・吉川浩一郎に入門、剣技を学ぶ。
満州国武道顧問・建国大学武道顧問等に就任。合気武道が建国大学の正課に採用される。
1925年(大正14年)42歳。この頃から胃腸・肝臓の持病に度々悩まされる[17]。秋、「すごい武道家がいる」という浅野正恭の紹介により盛平を知った海軍大将竹下勇に招かれて上京、伯爵山本権兵衛等各界要人の前で演武を披露、感銘を受けた山本の依頼により青山御所で侍従・武官に指導を行う。
これを機に再三上京を促されるようになり、後に起こる第二次大本教弾圧事件を予見した王仁三郎の勧めもあり1927年(昭和2年)44歳、東京へ移住。武田惣角・大東流からも徐々に距離を置き始める。
この頃柳生新陰流19世柳生厳周の高弟で達人と謳われた元海軍中佐・下條(げじょう)小三郎から同流剣術を学ぶ。
1930年(昭和5年)47歳。講道館柔道創始者・嘉納治五郎が高弟二人を伴い来訪、盛平の演武を見て「これこそ真の柔道だ」と賞賛する。嘉納は講道館から望月稔を派遣し盛平に弟子入りさせた。
1931年(昭和6年)48歳。新宿区若松町に道場「皇武館」を設立、激しい稽古振りから「地獄道場」と呼ばれる。この頃の教授対象は皇族・華族・軍人・警察官・実業家・武道家の子弟など一部の層に限られた。入門に当たっては身元の確かな2人以上の保証人を条件とし、無頼の輩に悪用されぬよう公開を厳しく制限した。また軍部の要請で、陸軍戸山学校・憲兵学校・中野学校・海軍大学校などで武術指導を行った。
1932年(昭和7年)49歳。東京に数箇所、また大阪曽根崎警察署、大阪朝日新聞本社などに盛平の道場ができ、指導に奔走する。8月13日、王仁三郎の依頼で「大日本武道宣揚会」を組織し会長に就任、機関紙『武道』を発刊。
1933年(昭和8年)50歳。兵庫県竹田町に「武農一如」方式の「大日本武道宣揚会竹田道場」を開設、大本信者に限らず一般の修行者にも開放、東京の皇武館と並ぶ西日本の拠点となり、「西の地獄道場」と呼ばれる。
1933年(昭和8年)50歳。技術書『武道練習』(ガリ版刷り私家版)を著す。
1935年(昭和10年)52歳。記録映画『武道』(大阪朝日新聞社制作 久琢磨監督)が収録される。 第二次大本教弾圧事件で警察の取調べを受ける。門人であった大阪府警察部長・富田健治らの尽力により不問となるが、一時田辺に謹慎。
1936年(昭和11年)53歳。6月、武田惣角が突如大阪朝日新聞本社に来訪する。この報に盛平は惣角に会うことなく弟子と共に東京に去り、以後大阪朝日新聞道場の指導は惣角が行った。盛平はこの頃から「合気武道」を名乗り、大東流との差別化と独自性を強めて行く。
1937年(昭和12年)54歳。12月5日、嘉納治五郎の紹介で、弟子の赤沢善三郎と共に署名血判のうえ鹿島新当流宗家・吉川浩一郎に入門、剣技を学ぶ。
満州国武道顧問・建国大学武道顧問等に就任。合気武道が建国大学の正課に採用される。
1938年(昭和13年)55歳。技術書『武道』(私家版)を著す。
1939年(昭和14年)56歳。満州国武道会常務理事・天竜三郎の招きで公開演武会に出場、腕試しで天竜を投げる。
1940年(昭和15年)57歳。「財団法人皇武会」として厚生省より認可を受けた。初代会長・竹下勇、副会長・陸軍中将林桂、理事に公爵・近衛文麿、陸軍中将前田利為、東京帝国大学医学部教授二木謙三ら。
1941年(昭和16年)58歳。12月8日、日米開戦。この前後に近衛文麿の依頼を受けて支那大陸に渡り、支那派遣軍総司令官・畑俊六と連携し、蒋介石との和平交渉工作を試みるが不首尾に終わる。
1942年(昭和17年)59歳。戦時統制策により皇武会は政府の外郭団体・大日本武徳会の「合気道部」に統合され、便宜上「合気道」を名乗る。盛平は武徳会には門人の平井稔を代理人として派遣、これを機に自らは一切の公職を辞し、皇武館道場長を息子吉祥丸に譲り、妻はつと共に岩間に移住、合気神社および住居周辺を開墾し道場の建設にも着手、李垠より金壱百円を下賜される。同地を「合気苑」と名付けかねてより念願であった「武農一如」の生活に入る。
1943年(昭和18年)60歳。5月3日、武田惣角が青森にて死去。享年84歳。この頃盛平は岩間で大病を患い一時重篤な状態となって二木謙三の往診を受けており、惣角の葬儀には参列しなかった。戦後・合気会設立
1940年(昭和15年)57歳。この頃から茨城県岩間町において合気神社の建設に着手する。昭和10年頃から同地に土地を少しずつ買い足しており、引退後の住処にする計画であった。
1941年(昭和16年)58歳。12月8日、日米開戦。この前後に近衛文麿の依頼を受けて支那大陸に渡り、支那派遣軍総司令官・畑俊六と連携し、蒋介石との和平交渉工作を試みるが不首尾に終わる。
1942年(昭和17年)59歳。戦時統制策により皇武会は政府の外郭団体・大日本武徳会の「合気道部」に統合され、便宜上「合気道」を名乗る。盛平は武徳会には門人の平井稔を代理人として派遣、これを機に自らは一切の公職を辞し、皇武館道場長を息子吉祥丸に譲り、妻はつと共に岩間に移住、合気神社および住居周辺を開墾し道場の建設にも着手、李垠より金壱百円を下賜される。同地を「合気苑」と名付けかねてより念願であった「武農一如」の生活に入る。
1943年(昭和18年)60歳。5月3日、武田惣角が青森にて死去。享年84歳。この頃盛平は岩間で大病を患い一時重篤な状態となって二木謙三の往診を受けており、惣角の葬儀には参列しなかった。戦後・合気会設立
1945年(昭和20年)62歳。東京の本部道場は空襲による焼失を免れるも、避難民を収容し活動困難となる。終戦となり戦地より復員した弟子達は岩間の盛平を頼って集まり、やがて吉祥丸の手により本部道場も復興、東京と岩間を軸に戦後皇武会の活動が始まる。
1948年(昭和23年)65歳。2月9日に「皇武会」は「財団法人合気会」(初代理事長・富田健治)と改称、岩間の合気苑を本部とし、改めて文部省の認可を受けた。この時はじめて正式に「合気道」を名乗る。これにより盛平は初代合気道「道主」となる。
1950年(昭和25年)67歳。4月、合気会機関紙・月刊『合気会報』(後の『合気道新聞』)発行開始。この頃より全国各地の道場を盛平が訪れ指導を行うようになった。
1954年(昭和29年)71歳。日本総合武道大会(長寿会主催)で盛平の高弟・塩田剛三が優勝し、財界人の援助を得て「合気道養神館道場」を創設し合気道の普及に名乗りを上げる。合気会もこれに大きな刺激を受け、大学・官庁・企業などに相次いでクラブを設立、合気会本部を岩間から東京道場に移し、本格的な合気道の普及に乗り出した。
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