慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは従来、父無二の旧主君であった新免氏が宇喜多秀家配下であったことからそれに従って西軍に参加したと言われてきたが、父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書(『慶長7年・同9年黒田藩分限帖』)が存在することから、父と共に当時豊前を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い。この説に従う黒田家臣・立花峯均による武蔵伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』(『丹治峯均筆記』・『武州伝来記』とも呼ばれる)では、黒田如水の軍に属して九州豊後の石垣原(今の別府市)で西軍大友義統軍との合戦に出陣し、出陣前の逸話や冨来城攻めでの奮戦振りの物語が語られている。
『五輪書』には「廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるという事なし」と記述される。天正12年(1584年)に武蔵が生まれたと考えると慶長9年(1604年)のことになる。「天下の兵法者」は、『新免武蔵玄信二天居士碑』(小倉碑文)に記された「扶桑第一之兵術吉岡」、すなわち吉岡一門と考えられる。この戦いは、文芸作品等でさまざまな脚色がされ有名である。
武蔵が行った勝負の中で最も広く知られているものは、俗に「巌流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に豊前国小倉藩領(現在は山口県下関市域)の舟島(関門海峡に浮かぶ巌流島)で、岩流なる兵法者(一般的に「佐々木小次郎」と称される人物)と戦ったとされるものである。
大坂の役(慶長19年(1614年) - 元和元年(1615年))では従来、豊臣方として参戦したと通説の如く語られるが、根拠のない俗説である。実際は水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成の嫡子・勝重(のち水野勝俊)付で活躍したことが数々の資料から裏付けられている。
その後、姫路城主本多忠刻と交渉を持ちながら活躍。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭を行っている。『海上物語』ではこの時期、夢想権之助(神道夢想流開祖)と明石で試合したことが伝えられている。(同記事のある『二天記』ではこの試合は江戸でのこととされるが、この記事は『二天記』の原史料である『武公伝』には記載されていない。)
元和の初めの頃、水野家臣中川志摩助の三男三木之助を養子とし、姫路城主本多忠刻に出仕させるが、三木之助は寛永3年(1626年)に亡くなった忠刻に殉死する。宮本家は三木之助の実弟が後を継ぎその後も存続したが、同じ年に播磨の地侍田原久光の次男伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石城主小笠原忠真に出仕させている。伊織は寛永8年(1631年)20歳で小笠原家の家老となっている。
寛永15年(1638年)の島原の乱では、小倉城主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津城主小笠原長次の後見として出陣している。乱後に延岡城主の有馬直純に宛てた武蔵の書状には「拙者も石ニあたりすねたちかね」と一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。
吉原遊廓の開祖庄司甚右衛門の記録である青楼年暦考(庄司家家譜)に、寛永期の記録として、江戸に滞在しており、新町河合権左衛門の置屋にいる遊女雲井と馴染みで、島原の乱の直前に雲居に指物の袋を依頼、これを受け取ってから騎馬で出陣した旨の記載がある。
「宮本武蔵は新町河合権左衛門内雲井という女郎の相方にして遊ばれけるが、寛永十五年島原一揆の時、黒田様の御陣へ見舞に参るとて、暇乞いながらかの雲井が許に来られ、かの女にさし物を縫はせ、勇々敷出立、直に騎馬にて肥前へ参られけるよし」当時の吉原は江戸城の東、現在の日本橋人形町近辺に位置していた。また当時吉原遊郭の自治のため並木源左衛門、山田三之丞が武蔵の弟子となって柔術などを習っていたとの記載もある。
寛永17年(1640年)熊本城主細川忠利に客分として招かれ熊本に移る。7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、家老以上の身分でなければ許可されない鷹狩りが許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。 同じく客分の足利義輝遺児足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。
翌年に忠利が急死したあとも2代藩主細川光尚によりこれまでと同じように毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として「士水伝えて云、武公肥後にての門弟、太守はじめ長岡式部寄之、沢村宇右衛門友好、その他、御家中、御側、外様、及陪臣、軽士に至り千余人なり」とこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。
寛永20年(1643年)熊本市近郊の金峰山にある岩戸の霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『獨行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子寺尾孫之允に与えている。
正保2年5月19日(1645年6月13日)千葉城の屋敷で亡くなる。墓は熊本市龍田弓削にある通称武蔵塚。北九州市手向山に養子伊織による武蔵関係最古の記録のひとつである『新免武蔵玄信二天居士碑』、通称「小倉碑文」がある。
武蔵の兵法は、初め円明流と称したが、『五輪書』では、二刀一流、または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には二天一流となったものと思われる。後世では武蔵流等の名称も用いられている。熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、肥後熊本藩で二天一流兵法を隆盛させた。また、孫之允の弟子の一人柴任三左衛門は福岡藩黒田家に二天一流を伝えている

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