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5.12.2012

ケン・ノートン

ケン・ノートン(Ken Norton、男性、1943年8月9日 - )は、アメリカ合衆国のプロボクサー。イリノイ州ジャクソンビル出身。プロボクシング史上最初にして唯一世界戦で一度も勝利したことが無い世界王者である。その強打でモハメド・アリの顎を割ったことがある。ヘビー級には珍しくボディ攻撃のできる実力派だったが、アリ、フォアマン、ホームズといった怪物たちに囲まれ、生まれた時代が悪すぎたと言えよう。ハンサムな風貌から映画にも出演している(「マンディンゴ」「ドラム」)。また、「ロッキー」でアポロクリード役を演じる予定だったが、都合によりカールウェザースに変更となった


1967年11月14日、プロデビュー。
1973年3月31日、モハメド・アリに12ラウンド判定勝ちし、北米ヘビー級タイトルを獲得。アリは、この試合でノートンのパンチを受けて、顎を骨折。
1973年9月10日、モハメド・アリと再戦、僅差の12ラウンド判定負け。
1974年3月26日、ベネズエラのカラカスでジョージ・フォアマンの持つ世界ヘビー級王座に挑戦するが、2ラウンドKO負け。
1976年9月28日、ニューヨークのヤンキー・スタジアムにおいてモハメド・アリの持つ世界ヘビー級王座に挑戦するが、僅差の15ラウンド判定負け(アリとの計3戦は、ノートンの1勝2敗となった)。
1977年11月15日、この年の3月17日にプエルトリコでジョージ・フォアマンと対戦して、最終の12ラウンドにダウンを与えて判定勝ちしたジミー・ヤングと世界ヘビー級王座挑戦者決定戦で対戦、僅差の15ラウンド判定勝ち。
1978年3月、この年の2月15日にアリとの世界ヘビー級タイトル戦で判定勝ちして世界ヘビー級王座を獲得したレオン・スピンクスが初防衛戦でWBCが指定したノートンとの対戦を拒否してアリとの再戦を選んだため、スピンクスから王座を剥奪したWBCによって世界ヘビー級チャンピオンに認定される。
1978年6月10日、ラスベガスのシーザーズ・パレスでの初防衛戦でラリー・ホームズに僅差の15ラウンド判定負け(143-142、142-143、142-143)を喫し、王座から陥落した。
1979年3月23日、アーニー・シェーバースとWBC世界ヘビー級王座挑戦者決定戦で対戦、1ラウンドKO負け。
1981年5月11日、ニューヨークでジェリー・クーニーと対戦し、1ラウンドKO負け、引退。

具志堅用高

西岡利晃

マニー・パッキャオ

グレイシー柔術

剣道

強さって

ブルース・リー

5.04.2012

塩田剛三





1915年(大正4年)9月9日、医師・塩田清一の次男として生を享ける。本名・塩田剛(しおだたけし)。
新宿区立四谷第六小学校時代から剣道・柔道を習い、旧制東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)5年の時には、講道館柔道三段位を取得していた。
1932年(昭和7年)、18歳の時、府立六中校長の誘いで植芝盛平の営む植芝道場を見学。その際、植芝に手合わせを挑んで一瞬で投げ飛ばされ、即日入門を決意する。これ以後、内弟子時代も含めて約8年間、植芝のもとで修行に励んだ。その後拓殖大学を卒業。




1941年(昭和16年)から、親交の深かった畑俊六の秘書として、台湾、中国、ボルネオなど各地に派遣され、それぞれの地で勤務の傍ら合気道の普及に努める。




1946年(昭和21年)、帰国。茨城県岩間に居を構えていた植芝の下で、再び修行に打ち込んだ。


1955年(昭和30年)7月、ライフ・エクステンション(長寿会)主催の「日本総合古武道大会」において演武を披露し、同大会最優秀賞を受賞する。これにより、社会の合気道への関心は急速に高まっていった。


1956年(昭和31年)、政財界の後押しもあり、「合気道養神会」を結成して会派・養神館合気道を立ち上げ、道場を新宿区筑土八幡に設立した。


1961年(昭和36年)、植芝より合気道九段の免状を受ける(当時最高位)。植芝より直々に授与される免状は、これが最後になる。
1962年(昭和37年)、ロバート・ケネディ夫妻が養神館道場に来館。


1965年(昭和40年)、常陸宮夫妻、アレクサンドラ王女の前で演武。


1983年(昭和58年)、国際武道院より範士号をうける。


1985年(昭和60年)、国際武道院より合気道十段をうける。
1987年(昭和62年)、徳仁親王(現在の皇太子)が来館。
1988年(昭和63年)、国際武道院より合気道名人位をうける。
1990年(平成2年)、全日本養神館合気道連盟、国際養神会合気道連盟を設立。国内だけでなく欧米諸国に至るまで、合気道の普及を進めていった。
1994年(平成6年)7月17日、死去。78歳没。
塩田の遺した養神館合気道は、現在も国内をはじめ、世界各国で後進に受け継がれている。






アリスター・オーフレイムの試合

カポエイラ(capoeira)の試合動画集

5.03.2012

宮本武蔵「五輪書」 空の巻

二刀一流の兵法の道を空の巻として書きあらわす。空というものは、見ようとして見えないもので、心と体にいっぱいに満たした状態が空である。もちろん、空とはないということである。存在が見えない。世間一般においては、悪い言い方をすれば、物をわきまえていないことを空であると誤解している。


それは本当の空ではない。この兵法の道においても、武士の兵法を理解していないので、空の状態にはなっていないのに、いろいろと迷い、どうしていいのか分からなくなり、空虚になってしまっている状態を空と誤解しがちであるけれども、これは真の空ではない。


武士は兵法の道を確かに覚え、その他の武芸をよく理解し、武士のおこなう道がはっきり理解出来ていて、心が迷わない状態で、日々を怠らずに鍛錬し、心、意の2つの心を磨き、観、見の目を研ぎ、少しもくもりがなく、迷いの雲が晴れている状態こそ真の空と思うべきである。


実の道を知らずにいるのは、仏法によらず、世間の法によらず、自分で正しい道と思っていて、いいことだと思っているけれども、本当の道から考えると、世の中の大きなほんものの尺度に合わせてみると、贔屓目であったり、歪んでいたりで、正しい道から外れているのである。この道理をよくわきまえて、まっすぐなところに基本を置き、実の心を道として、兵法の道を広く行い、ただしく、明らかに、物事を大きく捉え、空の境地に到達し、道は空に成る事だと見極める。
空には、善があり惡無し 智があり、理があり、道が有り、(真)心の根本は空也

宮本武蔵「五輪書」 風の巻

兵法の道では、他流の道を知ることが大切と考えて、他流のさまざまな兵法をここに書付け、『風の巻』としてこの巻を表した。他流の道を知らなくては、一流の道を的確に表現することは出来ない。大きな太刀を使い、道場で強いということだけをその兵法の売りにしてはならない。、ある流派は短い太刀を使って剣法に専念する。あるいは多くの太刀筋を使い分けて、太刀の構えを表だ、奥だと称して道を伝える流派もある。


これらがのすべてが正しい道でないことを、この巻の中にはっきり書き表し、兵法の善悪理非をはっきりさせる。一流の兵法は彼らとは全く違ったものである。

他流の人々は武芸の道を生計の手段とし、華やかな技巧を飾って、道場で売りものに仕立てているのであって、全く兵法の正しい道からは外れたものである。また世間の兵法の発展を剣術だけに小さく限定してしまい、太刀を振る訓練をし、強い身のこなしを憶え、時間をかけているようだが、いずれも真の兵法のみちでない。
ここに他の流派の欠点をいちいち書き表しておくので、よくよく吟味してわが二刀一流の道理を学んでもらいたい。

一 他流に大なる太刀を持つ事
他流に大きな太刀を好むものがある。我が一流の兵法から見れば、この流派を弱者の兵法とみる。その理由は、他の流儀では敵に勝つ道理を云わず、手段に偏って勝つ方法を云い、太刀の長さを長所として、敵の太刀の届かぬところから勝ちを得ようとするので、長い太刀を好むからである。世間で”一寸、勝り”とを言っているのは兵法を知らぬ者の言い分にすぎない。そうであるから兵法の道理を会得していなくって、太刀の長さによって遠いところから勝ちを得ようとするのは、心の弱さのためであって、これをを弱者の兵法と見立てたのである。
もし敵と近づいて互いに組み会うほどのときは、太刀が長いほど打つことができず、太刀を自由に振り回すこともできず、太刀やっかいとなって、短い脇差を振るよりも劣るものである。オールマイティじゃない。長い太刀の流派にはその言い分はあろうが、それは独り善がりのへ理屈にすぎない。正しい道よりみれば道理のないことである。もし長い太刀を持たないで、短い太刀を使うときには必ず負けざるを得ないであろう。
また戦いの場所により、上下左右などに空間がないときや、また脇差だけが使える場合においても、長い太刀に執着していると兵法に対する不信感に発展していき、兵法自体の発展にも悪い。人によって、力が弱く長い太刀をを使えないものもある。昔から大は小兼ねるといわれており、むやみに長い太刀の嫌うのではない。ただ長い太刀にばかり執着する心を嫌うのである。
多人数の戦いにあてはめた場合、長い太刀は多くの人数に相当し、短い太刀は小人数にあたる。小人数と大人数と闘うことはできないであろうか。小人数で多人数に勝った例はいくらもある。我が流においては、狭い考えを嫌うのである。よくよく吟味しなければならない。

一 他流において強みの太刀と云ふ事
太刀において、強い太刀に弱い太刀ということはあるはずがない。強い気持ちで振る太刀は粗雑なものとなる。粗雑な太刀だけでは勝ちを得るのは難しいものである。また強い太刀だと言っても人切るとき、強く切ろうとするばかりでは、かえって切れないものである。試し切りの場合にも強く切ろうとするのはよくない。だれでも敵と切り合うとき弱く切ろう、強く切ろうとか考えるものではない。ただ、人を切り殺そうと思うときは、強くきろうとも思わず、もちろん、弱く切ろうとも思わない。敵を殺す程と思うだけである。また力を込めた太刀で、相手の太刀を強く打てば、体制が崩れ悪い結果が生じるものである。相手の太刀に強く当たれば、我が太刀もそのために折れてしまうものである。そういうわけであるから、強く振る太刀ということはありえないのである。多人数の戦いにあてはめてみれば、強力な軍勢を
持ち、戦いに力強く勝とうとすれば、敵も当然強力な兵卒をそろえて、激しい戦いをしようとするので、これはどちらも同じである。戦いに勝つことは正しい道理なしには勝つことはできない。我が一流の兵法の道おいては、無理なことは少しも思わず、兵法の智力によって、どのようにも勝ちを得るということをよくよく工夫せよ。




一 他流に短き太刀を用ゆる事
短い太刀で勝とうとするのは正しい道ではない。昔から太刀、小刀と分けて、長い、短いをいい表している。一般に力の強いものは大きな刀も軽く振ることができるので、わざわざ短い太刀を用いる必要はないのである。そのわけは長さの利点を活用して槍やなぎなたを使うものだからである。
短い太刀を特に愛用するものは、敵が振るう太刀の間を、隙につけ入ろうと思うのであり、このように心が偏ったのはよくない。また敵の好きな様になってばかりいると、すべてが後手となり、敵ともつれ合うことになってよくない。さらにまた、短い太刀によって敵の中へ入り込み1本とろうとするやり方では、(道場で1本取れるが)大敵の中では通用しないものである。
短い太刀ばかりを用いたものは多くの敵に対して、切り払おう、自由に飛び回ろうと思っても、すべてが受け太刀となり、敵とからみあってしまって、確実な兵法の正しい道ではない。同じことならば、わが身は強くまっすぐな状態にして、敵を追い回し、飛び跳ねさせ、うろたえさせるように仕掛けて、確実に勝利を得ることが道である。
多人数の戦いにあっても同じ道理である。同じことならば、大軍勢でいきなり敵に攻め込み、即座にせん滅することが兵法の道である。世間の人々が、兵法を習うのに、常日頃から受ける、交わす、くぐるなどのことばかりで習っていると、潜在的な心に引きずられて、後手に回り、敵に追い回されてしまうものである。兵法の道は正しく、まっすぐなものであるから、正しい道理を以って敵を追いまわし、相手を従えていくことが大切である。よくよく吟味せよ。

一 他流に太刀かず多き事
他流において、数多くの太刀の使い方を人に伝えていることは、兵法を売り物に仕立てて、太刀の使い方をいろいろ知っていることを、初心者に感心させるためであろう。これは兵法で最も嫌うべきことである。
その理由は、人を切るのにいろいろの方法があると考えるのが誤りだからである。人を切るということに変わりはない。兵法知るもの知らないもの、女子供であっても、敵を切るということに多くのやり方があるわけではない。切るということ以外には、突く、薙ぐことがあるだけである。とにかく敵を切ることが兵法の道であれば、そのほかに多くの使い方があるべきはずはない。しかしながらその場所や事情によって、例えば上や脇がつまっているところでは、太刀がツカエない様に持つから、太刀の持ち方には五方といって、五種類はあるはずである。それ以外に付け加えて、手を捻るとか、身を捻り、飛びひらき、敵を切ることは正しい兵法の道ではない。敵を切るのに、ひねったり、飛んだり、開いたりして切れるものではない、全く役に立たないことである。
わが兵法にあっては身も心もまっすぐにして、敵をひるませ、ゆがめて、平静さを失ったところで勝つ、このように思う事が肝心なのである。よくよく吟味せよ。(小技は決定的チャンスを掴むまでの便法で,失敗の可能性もあり、合戦では応用できない。)

一 他流に太刀の構を用ゆる事
太刀の構え方に重点を置くのは誤った考え方である。世間一般には構えをするということは敵がいない場合のことであろう。そのわけは昔からの先例や、今の時代の方法はなどと法則性をつくることは、勝負の道にはあり得ない。相手に具合が悪いように仕込むことなのである。物事の構えというのは、動遥しない体制をとるための用心なのである。城ををかまえたり、陣をかまえたりすることは、人に仕掛けられても、少しも動遥しない状態をいい表しているのであるが、これは平常のことである。ところが兵法の勝負の道では、何事も先手先手を心掛けることである。これに反して構えるということは、先手を待っている状態である。よくよく工夫せよ。
兵法の勝負の道では、、相手の構えを揺させ、おびやかし、敵をうろたえさせ、敵が混乱して拍子が狂っているところに乗じて勝つのであるから、構えなどという後手の態度を嫌うのである。従ってわが兵法においては、有構無構すなわち構えがあって構えがないというのである。
多人数の戦いの場合にも、敵の兵数に多少を知って、戦場の状態を見極め、我が人数の程度ははかり、その長所を生かして人数を決め、戦いを始めることが合戦に最も重要なことである。人に先手を仕掛けられたときと、自分から仕掛けたときには戦いの有利さは倍も違う。太刀をよく構え、敵の太刀をよく受けよく、弾いたと思っても、所詮受け身というものは、槍や薙刀のような長いものを持っていても、防御にこしらえた柵が槍長太刀を跳ね返しているのと同じことで、本当に敵を打つことはできない。どちらにしても、結果的に負けるなら槍薙刀の代わりに柵木を武器にしても同じである。よく吟味すべきである

一 他流に目付といふ事
他流では目付といって、それぞれの流儀により、敵の太刀に見を付けるものと、手に目をつけるもの、また、顔、足などに目をつけるものがある。このように特別に目付けを強調すると、それに惑わされて、兵法の迷いとなるものである。その訳は例えば、鞠蹴る人は鞠に目をつけていないのに、自在に蹴る。ものに習熟するということによって、確かに目でものを追う必要はない。また曲芸などをするものの技にも其の道に習熟すれば、戸板を鼻の上に立てたり、刀をいくらでも手玉に取る、これも皆確かに目をつけることなのだけれども、いつも手慣れているから自然によく見える。兵法においてもその時々の敵との戦いに熟れ、人の技量が解り、兵法の道をを体得できれば、太刀の遠近遅速までもすべて見えるものである。目のつけどころは、相手の心に付いた目で、心眼を働らかせねばならないのである。であるから
我が一流においては、観、見の二通りの目付けがある。観の目を強くして敵の心を見、その場の位を見、大きく目つけてして、その戦いの流れを見て、正しくを勝つことに専心しなければならない。多人数の戦いにおいて、小さいいいところに目をつけてはならない。前にも書いたように、細く小さく目をつけることは、大きな目的を見失い、迷う心が出来て、勝つことを逃すものである。この道理をよくよく吟味して鍛錬すべきである。


一 他流に足つかひ有事
足の踏み方に浮き足、飛び足、はね足、踏みつける足、からす足などと言っていろいろとある。これらはわが兵法から見ればすべて不十分と思われる。浮き足を嫌う理由は、戦いになれば必ず足は浮くようになるので、しっかりと確実に足を踏むことが大切である。また飛び足もよくないのは、飛びあがるとそれによって、次の動作が自由を失うからである。幾度も飛ぶ必要はないのだから、飛び足はよくないのである。また、はねるという気持ちがあってはうまく行かないものである。踏みつける足は待ちの足で特に嫌う、敵に先手を取られる。その他にからす足などと、いろんな速い足遣いがある。また沼、深田、山、川、石原、細道などでも闘う場合が在るから、その場所によって飛び跳ねることができない。平常心のときの姿勢で足らず、あまらず、足が乱れのないようにすべきだ。多人数の戦いにあっても、足の運びが肝要である。敵の意図や手段が理解できないまま、やたらに早くかかれば拍子が狂って、勝ちがたいものである。敵にうろたえがあって、崩れ目が見えるのに、早く勝負をつけることができなくなるのである。敵がうろたえ,崩れる状況をよく見わけて、少しも敵に余裕を与えないようにして勝つことが肝心である。よくよく鍛錬せよ。

一 他の兵法に早きを用ゆること
兵法で、さばきが素早いというのは本筋ではない。素早いということは、物事にある拍子のリズムに合わせるもので、速いリズム、遅いリズムといろいろあり、上級者のリズムは早いようには見えないえないものだ。例えば、朝から暮れまでで160キロから200キロと、早く歩く人もある。要領の悪い人は1日中急ぎ続けてもハカがいかず、くたびれ儲けになる。踊り上手に合わせるのに、謡が下手ならば遅れるのを恐
れて、忙しいリズムになる。またツツミ太鼓で老松を打つと静寂感が漂うものだが、下手はこれにも遅れる。高砂は急テンポのリズムだが、早すぎるとよくない。”こける”と言って間が外れる、もちろん遅れてはよくない。とにかく上手のすることはゆっくり見えて、間が飛んだりしない。何事も慣れた、上手のをすることは、忙しくは見えない。鍛錬して、道の理を知れ。特に兵法の道で早すぎるリズムはよくない。沼、深田では、足も、体も動かしにくいので、太刀筋はもっと動かしにくい。早く切ろうと焦ると、扇や小刀のような小ぶりなものならともかく、着実に切ろうとしても切れない、よく考慮せよ。多人数の戦いにしても、早く早くと急ぐう気持ちはよくない。”枕を押さえる”を思い出し、それくらいの気持ちで丁度良い。無駄で無分別の行動はしないで、冷静になり、人に動かされないことが肝要である。この心を工夫し鍛錬するべきである

一 他流に奥表と云う事
兵法のことにおいて、いずれを表といい、何を奥ということができようか。芸によっては時折、極意秘伝などと言って、奥義に通ずる入り口があるけれども、いざ敵と討ち合うときになれば、表で戦い奥で人で切るなどというものではない。わが兵法を人に教える場合には、初めて兵法を習うなう人には、その人の技量に応じて、早く出来そうなところからまず習わせ、早く理解できるような道理などを教え、理解しがたい道理については、その人の理解の進んでいったところ頃合いに従って、次第に深い道理をの後に教えていくように心がけている。しかしながら大抵は実際に敵と打ち合うときの道理を通して理解させているのであるから、奥義に通じる入り口ということはないのである。例えば世間一般に山の奥へ行こうとしてもっと奥へ行こうと思えばかえって、入り口に出てしまうものである。何事の道であっても奥義が役に立つこともあり、また表を使って有効なこともある。この兵法の道にあっては、何をかくして、何を公にするか、などあるであろうか。従ってわが流儀を伝えるには誓詞やは罰文などというものは用いない。この兵法を学ぶ人の智力を見て正しい道を教え、兵法を学ぶうちに身につくさまざまな欠点を除き、自然に武士の道の正しいあり方を悟らせて、動揺しない心にすることがわが兵法の人に教える道であるよくよく鍛錬しなければならぬ。

右は他流の兵法を九カ条として風の巻としてあらまし書き表した。一流一流について、入り口より奥義までを詳しく書きが表さなければならないが、わざと何々の何の極意といった名を記すことはしなかった。そのわけは、それぞれの流派による理論は、その人、各自の考えがあるから、同じ流儀の中でも多少は見解の違いがあるものであるから、後々までのためにどの流派の太刀筋ということは書かなかったのである。そこで他流の大体を九つに分けてみたのである。世間の正しい道理からすれば、長い太刀に偏り、あるいは短い太刀こそ良しとし、強弱のみにこだわり、大まかなことも、また細かなこともすべて偏った道であることが、他流の入り口や奥義のことを書かなくともすべて解るはずであろう。我が一流の兵法にあっては太刀の使い方に初心も奥義もない。極意の構えなどということもない。ただ心の正しい動きによって兵法の特長をわきまえることが最も肝心なのである

宮本武蔵「五輪書」 火の巻

二天一流の兵法におい、戦いのことを火の勢いに見立てて、勝負に関することを火の巻として、この巻に書きあらわすものである。世に兵法と呼ばれるものをだれもかれももが矮小化し、指先の力加減、手首の動きなどを。あるいは扇を持って、ひじから先の小器用さを述べ、また竹刀などでわずかなスピード技を述べ、手や足の動きを練習し、小器用さだけ得ようとしている。わが兵法にあっては、数度の勝負に命をかけて打ち合い、死ぬか生きるかの兵法を実戦した。刀の道筋をおぼえ、敵の打つ太刀の強弱を知り、太刀筋をわきまえ、敵を倒す鍛錬を覚えようというのに、このような小手先だけの、小さな、弱々しい技では問題にならない。特に六具に身をを固めた実戦の場などで、小手先によることなど考えることもできない。さらに命がけの戦いで、1人で5人、10人とも戦い、確実に勝利するのが我が道である。 従がって1人で10人に勝つことも、1,000人で万人に勝つことも何ら違いはないのが道理である。よくよく調べなければならない。しかしながら、普段の稽古で、1,000人も万人も集めて訓練をすることはできない。例えひとりで太刀をとっても、その時その時の敵の計り事を見抜き、敵の強弱や勝機への手だてを知り、兵法の智恵の力を以って万人に勝つところを極めた後、この道の達人たり得るのである。兵法の正しい道を、自分が極めようとしっかり決意し、朝に鍛、夕に錬、技を磨き尽くした後に、人は自在自然に奇特な力を得、自由自在の神秘な力を持つことができるようになるのである。これが兵法を行う神髄である。
一 場の次第と云ふ事 

 場の位置を見極める。陽を後ろに背負って構えるのだ。陽を後ろにする事ができないときは、右の脇へ陽を持ってくる。座敷においても、明かりを後ろに、右脇に。自分の後ろの場がつまらないように。夜なども、敵の見える場においては、火を後ろに負ひ、または明かりを右わきにすること。敵を見下ろす、少しでも高いところに構える心を。座敷では上座が高きところ思うべし。 さて、戦いになって、敵を追い回すこと、自分の左の方へ 追い回す。難所を敵の後ろに、とにかく敵を難所追いやることが肝心である。 難所で敵に場を見せず、伺わせず油断なくせり込む。 座敷においても、敷居、鴨居、障子、縁、柱なども同様、いずれも適を追い回す。足場の悪い方へ。または、脇に構造物のあるところへ。いずれも場を利用し。場の利に勝ちを抑えることが肝心。よくよく吟味し鍛錬あるべきである。 兵法の道を鍛錬する者は、平常心の時から、座敷に居ても構造物の利や、位置の利を考え、野山に出ても、山の地の利を考え、川でも、沼でも、いつも地の利を考える心構えが肝要である。 一 三つの先と云ふ事(先手) 





 三つの先、一つは我が方より敵へ掛る時の先手、之を『懸の先』と云ふなり。又一つは敵より我方にかゝる時の先手、是は『たいの先』と云ふなり。又一つは我もかゝり敵もかゝり合う時の先手、『対々の先』と云ふ是三つの先なり。何れの戦いの初めにも此三つの先より外はなし。先の状況により勝つ事を得るものなれば、『先』と云ふ事兵法の第一なり。先の状況の仔細は様々あるが、ケースバイケースで論理的に分析し利を生かし、敵の心を見、我兵法の智恵を以て勝つ事なれば、細やかに書き分ける事ではない。第一『懸の先』は、我かゝらんと思ふ時、静にして時をはかり、俄かに早くかゝるのが『先』である。身体の上を強く早くし、底をのこす気持ちでやる『先』、又我心の思いを強くして、しかも、足は常の足より少し早い程度で、敵のわきへ寄ると、早く揉(もむ)み立つる『先』、又心も敵に照準を合わせて、初、中、後、同じ事に敵を挫(くじく)ぐ心にて、こころの底までつよき心に勝を考え、標準をぶち抜く、是れ何れも懸の先なり。第二待(対)の先、敵が我方へかゝりくる時、感知出来ていず弱きやうに見せて、敵がちかくなって、つんと強くはなれて飛つくやうに見せて(狼狽を装い)、敵のたるみを見て、直につよく勝つ事、これ一つの先である。又敵かゝり来る時、我もなほ強くなって出る時、敵のかゝる拍子の変わるタイミングを受け、そのまゝ勝を得る事、是が『対の先』の利なり。第三『対々の先』、敵が早くかゝるには我は静につよくかゝり、敵近くなって、つんと思い切った態勢になり、敵が対応出来ないと見ゆる時、直につよく勝つのである、又敵静にかゝる時、我身軽やかに少し早くかゝりて、敵近くなりて一揉み揉み、敵の対応にしたがひ、強く勝つ事是体々の先である、此の道理を細かく書き分けがたし。此書き付けを以て大略工夫あるべし、此の三つの先はケースバイケースで、常時、我が方より先にかゝる訳でも無いのだが、我方より計って、敵を追い廻はしたいものである、いづれも『先』の事は兵法の智力を以て勝つ事を得る肝心の事で、よくゝゝ鍛錬あるべし 
『枕を抑える』とは。頭を上げさせないということである。



兵法勝負の道においては相手に自分をひき回され、後手に回ることはよくない。何としても敵を思いままに引き回したいものである。従って、相手もそのように思う。自分もその気があるわけで,であるから相手の出方を察知することができなくては、先手を取ることはできない。


兵法において敵が打ってくるのを止め、突くのを抑え、組み付いてくるところを揉ぎ離すなどをすることなどである。枕を抑えるというのは、自分が一流の兵法を心得て、敵に向かい合うとしたら、敵が思う意図を事前に見破って、敵が打とうとするならば打つの字『う』で先制して、その後をさせないという意味であり、それがまくら押さえるとういうことである。


例えば敵がかかろうとしすれば『か』の字で先制する、飛ぼうとうすれば『と』字で先制する、切ろうとすれば『き』の字で抑えていくことで、皆同じことである。敵が自分にどのように仕掛けてきたときも、役に立たないことは敵のするままに任せて、肝心の事をおさえて、敵にさせない様にするのが、兵法において特に重要である。敵のすること抑えようと思うのは後手である。まずこちらは、どんなことでも兵法の道に任せ、技を行いながら、敵も技を直そうとする出端をおさえ、敵のどんな企図も一切役に立たない様にし、敵を自由に引き来回すことこそ真の兵法の達人である。これはただ鍛錬の結果なのである。枕を抑えるということをよくよく調べなければならぬ。

渡を越すというのは、

 例えば海を渡るのに、瀬戸というところもあり、また40里、50里の長い海上を渡るのを『渡』というように難所を乗り切るというほどの意味である。 人の一生のうちにも危機を超えるという場合も多いであろう。船路にあってはその『渡』のところを知り、船の位置を知り、日の良しあしをよく知って、友船を出さなくとも、1人で出港し、その時々の状況に応じて、あるいは横風に、あるいは追い風を受け、もし風向きが変わっても風に頼らず、二里や三里は櫓を漕いででも港に着く。『渡』を越す。


人の世も一大事を乗り越える、『渡』を越すと思い全力を尽くして危機を乗り越えるということがなければならぬ。兵法戦いの時にも、渡を越す気持ちが大切である。敵の程度を知り、自分の能力を正しく判断して、兵法の道理によって危機を乗り切るということは、優れた船頭が海を渡るのと同じ。危機を乗り切ればその後は心配ないものである。渡を越したしたことによって敵に弱みを生じさせ、わが身は優位に立つことができ、たいていの場合早々と、勝ちを得ることができる。多人数の戦いの上でも、一対一の勝負の上でも、渡を起こすというのは大切なことである。よくよく調べなければならぬ。

一 景気を知ると云ふ事 

 景気を見るというのは、多人数の戦いでは敵の意気が盛んか、衰えているかを知り、相手の人数のことを知り、その場の状況を知り、敵の状態をよく知って、こちらの人数をどう動かし、この兵法の利によって確実に勝てるというところを見込み、先の状況を見通して闘うということである。また一対一の戦いにあっては、敵の流派をわきまえ、相手の性質をよく見て、その人の短所長所を見分けて敵の意表をつき、間の拍子をよく知って先手をとっていくことが重要である。物事の景気というのは、自分の知力さえ優れていれば、必ず見えるものである。一流の兵法を自由にこなせれば、敵の心の内ををよく推し量って、勝ちをしめる手段は多く見いだすことができるはずである。十分に工夫すべきである 

一 けんをふむと云ふ事 

 剣を踏む。ということは、もっぱら兵法において用いるものである。まず多人数の戦いでは、敵が弓、鉄砲用いてこちらへ打ち掛け、仕掛けてくるというときには、敵はまず弓、鉄砲うち掛けて、その後から攻めかかるものであるから、こちらもまた、弓をツガエ鉄砲に火薬を詰めていては、敵陣に押し入ることはできない。このような場合、敵が弓鉄砲などを放つ前に、いち早く攻め入るように心がけ、早くかかれば敵は、弓の弦をあてがことも、鉄砲を撃つこともできない。敵が仕掛けてくるところをそのまま自然に受け止め、敵の攻撃を踏みつけて勝つことである。1対1の戦いでも、敵が打ってくる太刀を受けていては、とたんとたんという拍子になって、勝負のはかがいかない。敵が打ち掛ける太刀を踏みつける気概で、先制攻撃で勝ち、二の太刀など許さないようにすべし。踏むというのは、足にはかぎらず、身にても踏み、こころにても踏み、勿論太刀にても踏み付け、二の太刀などさせないように心得るべし。これが、すなわち、物事の先。敵の仕掛けるのと同時にぶつかるというのではなく、そのまま後に取り付き機先を制する(先制攻撃の本質である。ボクシングで言うならクロスカウンター)ことである。よくよく調べるべきことである。


一 くづれを知ると云ふ事 


崩れるということは何事についてもあるものである。家が崩れるのも、身が崩れるのも敵が崩れることもみな、その時にあたって、拍子が狂ってしまって崩れるのである。多人数の戦いにおいても、敵が崩れる拍子を捉まえて、その間を取り逃さないように追い立てることが肝心である。崩れるのを外してしまえば、盛り返す場合もある。また一対一の兵法においても、戦っているうちに、敵の拍子が狂って、崩れ目が出てくるものである。その時油断すれば敵はまた立ち直り、態勢を取り戻しどうにもならなくなるものである。敵の崩れ目を突き、立ち直ることができないように、確実に追い討ちをかけることが大切である。追い打ちをかけるとは、一気に強く打つことである。敵が立ち直れない様に討ちはなすものである。この討ちはなすということを、よくよく理解しなければならない。討ちはなさければ、ぐずぐずしがちになる。工夫すべきである。

一 敵になると云ふ事

  敵になるというのは、わが身を敵の身になり代わって考えるというのである。世の中を見ると、例えば盗人などが、家の中に立てこもったると、非常に強い敵のように思えてしまう。敵の身になっみいれば、逃げ込んで、世の中の人を皆敵とし、自分ではどうにもならなくなっている。進退極まった気持ちになっているのである。立てこもっているのは、キジであり討ち取りに入り込んでいくものは鷹である。この状態を分析すべきだ。多人数の戦いにおいても、敵は強いものと思いこんで、大事をとって消極的になるものである。しかし良い人数を持ち、兵法の道理を知り、敵にうち勝つところをよく心得ていれば心配すべきことではない。一対一の兵法においても、敵の身になって思ってみよ。兵法をよく心得て、剣の理にも明るく、道理に優れているものに当たっている。必ず負けると思っているものである。よくよく工夫すべきである。

一 四手をはなすと云ふ事 

 四つの手を離す。というのは敵もわれも同じ気持ちとなり、互いに張り合う状態になっては、戦いはどうにもならなくなるので、張り合うようになったと思えば、そのままの状態を捨て、別の方法で勝つことを知れというのである。多人数の戦いによっては、4つに張り合う状況になっては、決着がつかず、味方の人数も多く失うものである。こういう場合は、早く転身して敵の意表をつくような方法で勝つことが最も大切である。また一対一の兵法にあっても四つ手になったと思ったら、状況をかえて、敵の様子を見て、いろいろと変わった手段で、勝利を得ることが肝要である。よくよく考えなさい。 一 かげを動かすと云ふ事 陰を動かすというのは、敵の中の動きが見分けられない場合の方法である。多人数の戦いにあっても、どうしても敵の状況が分からないときには、こちらから強く仕掛けるように見せ掛けて、敵の出方を見分けるものである。出方が分かればいろいろな方法で、勝つことはたやすいものである。また一対一の戦いにおいても、敵が後ろに太刀をかまえたり、脇にかまえたりしたとき、不意に討とうとすれば、敵はその意図を、太刀に表すものである。敵の意図があらわれ、知れた時には、こちらはそれに応じた手をとって、確かに勝利を収めることができる。こちらが油断すれば、拍子を外してしまうものである。よく調べなければならぬ。





一 影を抑ふると云ふ事 

 影を抑えるというのは、敵の方からかかってくる意図が見えた時の方法である。多人数の戦いにあっては、敵が仕掛けてこようとするところを、こちらからその戦法を抑える調子を強く見せれば、敵は強い態度をに押されて、やり方を変えるものである。こちらも戦法をかえて虚心に、敵の先手を取り、勝ちを得るのである。一対一の戦いにおいても、敵から生じる強い気を、我が拍子によって抑え、くじけた拍子に、こちらは勝利を見出し、先手を取っていくのである。よくよく工夫しなければならぬ。 

一 移らかすと云ふ事 

 物事には移らせるということがある。例えば眠りなどもうつり、あるいは、あくびなども人にうつるものである。時が移るということもある。多人数の戦いにおいて、敵落ち着きがなく、ことを急ごうとする気が見えたときは、こちらは少しもそれに構わぬようにして、いかにもゆったりとなったと見せると、敵もこちらに引き込まれて、気分がたるむものである。そのような気分が、敵に移ったと思ったとき、こちらは心を空にして早く強く打ちかかることによって、勝利を得ることができる。個人の戦いにおいても、わが身も心もゆったりと、敵がたるむ間をとらえて、強く早く、先手を打って勝つことが重要である。また酔わせるといって、これに似たことがある。ひとつは心にイヤ気が差すこと。ひとつは心に落ち着きがなくなること。ひとつは心が弱くなることであり、こちらの心に相手を引き込むことなのである。よくよく工夫せよ。 

一 むかつかすると云ふ事 

 心を興奮動揺させるということは、いろんな場合にはある。ひとつは危険な場合、二つは無理な場合に、三つには予測しないことが起きた場合である。これをよく研究すべきである。多人数の戦いでも、相手方の心を動揺させることが肝心である。敵の予測しないところを激しい勢いで仕掛けて、敵のこころが定まらないうちに、こちらの有利なように、先手をかけて勝つことが大切である。また一対一の戦いでもはじめはゆっくりした様子で、急に強くかかり、敵の心の動揺に応じて、息を抜かず、こちらの優位のまま、勝ちを得ることが肝心である。よくよくが味わうべきである 一 おびやかすと云ふ事 おびえるということは物事によくあることで、思いもよらぬことに怯えることである。多人数の戦いにあって敵を脅かすことは、目に見えることだけではない。あるいはものの声で脅し、あるいは小さな兵力を大きく見せて脅し。または、横から不意に脅かすなど、すべて脅かすことである。そして敵がおびえた拍子をとらえて、有利に勝ねばならない。1対1の戦いにおいても、身をもって脅し、太刀を以って脅かし、声をもって脅し、敵が思いもかけのことを不意に仕掛けて、敵がおびえたところにつけ入り、そのまま勝利を得ることが肝要である。よくよくを味わうべきである。

一 まぶるゝと云ふ事 

 まぶるるというのは、敵と自分が接近して、互いに強く張り合って、思うようにならないとみれば、そのまま敵とひとつに混ざり合って、まざりあううちに有利に勝つこと、大切な事である。多人数の戦いでも少人数の戦いでも、敵と味方が分かれて向き合っていて、違いに張り合って勝負が決まらないときには、そのまま敵とからみあい、互いに敵味方の区別が分からなくなるようにして、その中で有利な方法をつかみ、絶対に勝つことが大切である。よくよく吟味せよ。 一 かどにさはると云ふ事 角にさわるというのは、一般に強いものを押すのに、そのまままっすぐに押し込むのは容易なことではない。多人数の戦いにあっては、敵の人数をよく見て、強く突出した所の角を攻めて、優位に立つことができる。突出した角がのめるに従い、全体も勢いがなくなる。その勢いのなくなる中でも、出ているところ、出ているところを攻めて、勝利を得ることが大切である。一対一の戦いでも、敵の体の角に損傷をあたえれば、からだの全体が次第に崩れた態勢になって、容易に勝ちを得ることができる。この道理をよくよく検討して勝ちを得ることをわきまえることが大切である 

一 うろめかすと云ふ事 

 うろたえさせるというのは、敵にしっかりとした心を持たせない様にすることである。多人数の戦いにあっては、戦場において敵の意図を見抜き、わが兵法の智力によって、敵の心をそこか、ここか、あれやこれやと迷わせたり、遅いか早いかと迷わせて、敵の心がうろたえたさせた拍子を捕まえて、確実に勝利を得る方法をわきまえることである。また一対一の戦いにおいても、自分は時期をとらえて、いろいろな技を仕掛け、あるいは打つと見せ、あるいは突くと見せ、また入り込むと思わせ、敵のうろたえた様子につけ込み、思いのままに勝つところ、これが是れ戦の専であるよくよく検討せよ。




一 三つの声と云ふ事 

 三つの声とは初、中、後の声といって、三つに分けた声のことを言う。時と場所により、声を掛けるということが大切である。声は勢いを付けるものであるから、火事や、風波に向かってもかけるものである。声は勢いを示すものである。多人数の戦いにあっては、戦いの最初にかける声は、相手を威圧するように大きく掛ける。また戦いの間の声は調子を低くし、底から出るような声をかける。戦いに勝った後には、大きく強く声をかける、これが三つの声である。一対一の戦いにおいても、敵を動かそうとするためには、打つと見せて、初めにエイと声をかけ、声の後から太刀を出すものである。また敵をうち破った後に声をかけるのは、勝ちを知らせる声である。これを戦後の声という。太刀を打つとを同時に大きく声を掛けることはない。もし戦いの最中にかける声は、拍子に乗るための声で、低く掛けるのである。よくよく調べよ。

  一 まぎるゝと云ふ事 まぎれるというのは、多人数の戦いの場合に人数が対峙し合って、敵が強いと見たときは、まぎれるといって、敵の一方にかかり、敵が崩れたと見たならば、直ちにうち捨てて、また他の強いところにかかるのをいう。いわばつづら織り模様にかかることである。1人で多勢を敵に回して、闘うときにもこの心がけが大切である。一方ばかりに勝ち抜くのではなく、一方が逃げ出せば、今度は別の強い方へかかり、敵の拍子を見とって、あるいは左、あるいは右と、つづら折りの心持ちで打って行くのである。敵の力の程度を見極め、打ち込んでいく場合には、一歩も引かぬ心持ちで、強く打ち込み勝利を得るのである。1対1の時も、敵の足元に身を寄せて入り込んでいく、敵が強いときにはやはりこの心得が必要である。まぎれるというのは一歩も引くことを知らず、紛れ込んでいことで。あるよくよく理解せよ。 

 一 ひしぐと云ふ事 ひしぐというのは、例えば敵を弱く見なして、自分は強い気で一気におし潰すことを言う。多人数の戦いにはあっては敵が少人数であることを見抜いたとき、又は、たとえ多人数であっても、敵がうろたえて弱みが見えれば、初めから優勢に乗じて完膚なきまでにうちのめすものである。もし一気におし潰すことが出来ないと、盛り返されることがある。手のうちにに握って、おしつぶすことをよく理解せよ。 また一対一の戦いのときにも自分より未熟な者、また敵の拍子が狂ったとき、退めになったときには、少しも息をつかせず、目を会わせないないようにして、一気にうちのめすことが肝心である。少しも立ち直ることができないことが第一である。(水に落ちた犬は打て)よくよく吟味せよ。




一 山海の変りと云ふ事

  山海の心というのは、敵とわれ等が戦う時に同じことをたびたび繰り返すことはないというのである 同じことを2度繰り返すのは仕方がないが、三度してはならない。敵にわざを仕掛けるのに、1度で成功しない時には、もう1度攻めたててもその効果はなくなる。全く違ったやり方を、敵の意表をついて仕掛け、それでもうまくいかなければ、さらにまた別の方法を仕掛けよ。 このように敵が山と思えば海、海と思えば山と意表をついて仕掛けるのが兵法の道である。よくよく吟味すべきことである。


一 底をぬくと云ふ事

  底を抜くというのは、敵と戦ううちに、兵法の技をもって形の上では敵に勝つように見えても、敵が敵愾心を持ち続けているので、表面では負けていても、心底では負けていないことがある。そのような時にはこちらは素早く心持ちを変えて、敵の気力をくじき、敵を心底から負けた状態にしてしまうことを見届けることが肝要である。こうして底を抜くというのは太刀によっても、体によっても、また心によっても底を抜くのである。敵が心底から崩れてしまった場合にはこちらも心を残しておく必要はないが、そうでないときには、心を残しておかねばならぬ。敵も心を残しているなら、なかなか崩れないものである。多人数の戦いにも一人ひとりの戦いにもこの底を抜くということをよくよく鍛錬しなければならない。 

一 新になると云ふ事

  新になるというのは、敵が自分と戦うときに、もつれる状況になってうまくはかがいかなくなったとき、自分の意図をふり捨てて、新しく物事を始める気持ちで、その拍子になり勝ちを見いだすことである。新になるのは、何時も敵と自分とがギシギシするような状況になったと思えば、そのままこちらの意思を変え、まったく違った方法で勝ちを締めるのである。 多人数の戦いにあっても、新たになるということをわきまえることが肝心である。兵法に達っしたものの智力をもってすれば、容易に見えるものであるよくよく吟味せよ。

一 鼠頭牛首と云ふ事
『ネズミの頭牛の首と』いうのは、敵と戦ううちに互いに細かいところばかり気を取られて、もつれる状況になったとき、兵法の道をネズミの頭から牛の首を思うように、細かなところにとらわれず、ポイントを思い返し、局面の転換を図ることを兵法の心掛けで、”鼠頭牛首”と云ふ。武士たる者は平生も、ネズミの頭を牛の首のように、変化を見ることが肝心である。多人数の戦いおいてもこの心掛けを忘れてはならない。 よくよく吟味すべきである


一 将卒を知ると云ふ事


 将卒を知るというのは、どんな戦いの時にも自分の思うようになったら、たえずこの”将卒を知る”という方法を行い、兵法の智力を得て、自分の敵となるものすべて我が兵卒と考えて、自分の指図のままに従わせることができるものと心得て、敵を自由に引き回すことを言う。このようになれば自分は将、敵は兵卒となるよく工夫せよ 

一 束をはなすと云ふ事 

 柄を離すというのは、いろんないろいろな意味がある。刀を持たないでも勝つ道もあり、また太刀以外のもので勝つこともある。さ まざまな意味があるのでいちいち書きしるすことはできない。よくよく鍛錬せよ。


 一 岩石の身と云ふ事 


巌の身というのは兵法の道を得ることにより、たちまちにして厳のように堅固となり、どんなことがあっても切られることなく、動かされぬようになることである。口伝である。 右に書き記したことはに、一流の剣術の場合に絶えず思いあたることである。今初めて兵法に勝つ道を書きあらわしたものであるから、前後の道理が少し混乱して細かく表現することができない。しかしながらこの道を修めようとする人のためには、道しるべとなる。自分が若年のときから兵法の道に心を傾け、剣術の1通りのことを修練し、鍛錬しさまざまな考え方を身に付けたが、他の流派を見ていると、あるいは口先だけでうまい講釈をしたり、あるいは手先で細かい技巧こなし、他人の目には有為のように見えるが、ひとつも真実がない。もちろんこうした兵法は、体を鍛え心を鍛えているとは思うけれども、皆後世への病弊となり、兵法の本当の道が伝わらない。兵法の正しい道が朽ちていく。剣術の正しい道というものは、敵と戦って勝つことであり、これこそ絶対に変わらないことである。わが兵法の智力を得て正しい兵法の道を実践していけば、勝ち得ることは絶対に疑い得ないものである。

宮本武蔵「五輪書」 地の巻




この兵法の道を二天一流と名付ける。数十年来鍛錬してきた事を、初めて書物に顕そうと思った。時を記す、寛永二十年十月上旬の頃。所、九州肥後の地。岩戸山(市内を金峰山を挟んで反対の海側)に上り、天を拝し、観音(岩戸観音)を礼し、仏前に向う。我、生国は播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信歳、以って六十、若年の昔より兵法の道に心を掛け、十三にして初めて勝負を為す。


 其の時、新当流有間喜兵衛と云ふ兵法者に打勝つ、十六歳にして但馬国、秋山と云ふ兵法者に打勝つ。二十一歳にして都に上り、天下の兵法者に会ひ、数度の勝負を決す、されど勝利を得ざると云ふこと無し。其後、国々、所々に至り、諸流の兵法者に行逢ひ、六十余度まで勝負をなすと云えども、一度も負け無し。それは、歳十三より二十八、九までの事なり。


 我三十を越えて、過去を思い見返るに、兵法を極めていて勝利したのではないと思う。生来の器用さが有って、自然の理が離れざる故ではないか、又は敵の法の兵法不足なる所なのか、其後なお深き道理を得ようと朝鍛夕錬して見れば、自を兵法の道に合ふように完成したのは、我が五十歳の頃なり。それより後は尋ね入るべき道なく、光陰を経た。兵法の理(これは万事に通ずるようだ)に従って、諸芸諸能の道を学んだが、万事に於て、我に師匠無し。(兵法の理に従えば師匠が無くても、そこそこやれる)


 今、此書を作ると云へども、仏法、儒道の古語をも借らず、軍記軍法の古きことをも用ひず、此の二天一流の見たての『実の心』を顕す気持ちは、天道と観世音を鏡とする気持ちで、透き通り、確としている。十月十日の夜、寅の一天に筆をとって書初るもの也。 


 兵法というのは武家の法である。将たる者は特別大事にこの兵法を思い、この兵法を体得しておくべきである。今の世の中に、確実に兵法を体得していて、人に伝え得るという武士は私以外にいない。まず、仏法は人を助ける道を顕し、儒者は文の道を顕し、医者は諸病を治す道、歌道者は和歌の道、数寄者、弓法者、諸芸、諸能それぞれ思い思いに稽古し、真実に大成している人はいるが、兵法の道では大成している人はまれだ。




 まず武士は文武両道を謹むのが道である。従ってこの道に不器用では済まぬ。武士はそれぞれの能力に応じて兵法を謹むべきものだ。おおかたの、”武士の心得”を“只死ぬる”のに儀に矮小化しているが、死ぬのは武士だけに限った事ではない。出家、女、百姓に至るまで、義理を思い、恥じを思い、死するべき時を思い、で差別は無い。武士が兵法を実践するとは、何事においても、人に優れているということを根本とすべきで、1対1の切り合いに勝ち、あるいは数人との戦いに勝ち、主君のために勝ち、名を挙げ身を立てようと思うのが道理である。




常時すぐ役立つよう稽古し、万事に役に立つように教えることこれこそ兵法の実の道である(負けて死んだのでは、意味が無い) 漢土和朝までも此道を行ふ者を、『兵法の達者』と云ひ、云い伝へがある。本来,武士として、此法を学ばずと云ふ事あってはならない。




 最近、兵法者と称して世を渡る者あり。是は剣術では大方そうである。常陸国鹿島や香取の社人どもが”明神の伝へ”と称して流派を立て、国々を廻り、人に宣伝しているのは最近の流行である。古より十能六芸と流行芸があり、その中に利用便法とか、奥義とか、芸全般に通ずる利方があるとか宣伝している。剣術全般にかぎらず、剣の技術にまでそのようなものがあるとは、剣術とはそのように簡単に身に付くものか?無論兵法とは、そんなに簡単に身に付くものではない。








世の中を見ると、芸を売り物にする武芸者がいる、諸道具についても利用便法付きで売り出している。花はあるが、実がない。とりわけ兵法の実についての講釈が無いのだ。方法論を華やかな言葉で飾りたて、利用便法にして『わが道場では短い太刀の素晴らしい使い方を』、あるいは、『わが道場では長い太刀の素晴らしい使いかたを』と大声で宣伝している。うっかり習って、その利方を身につけでもしたら、『生兵法は大怪我の元』という結果になってしまう。


  おおよそ、人の渡世に士農工商の四つの道がある。ひとつには農の道、農民は色々の農具で四季に合わせた作物を作る。二つには商の道。酒を作ったりして、醸造に適した道具を見つけ、その利を生かしている。それぞれがそれぞれの道具の利を生かして稼いでいる。三つ目に強調したいのは武士の道である。武士に置き換えて言うと、兵具が農具、道具にあたる。兵具をそろえ、兵具の利用便法を身につけ、大工が物差しで図面の確認をするように、寸暇を惜しんで、兵具の利用便法マスターする。 これこそ士農工商それぞれの道である。 




 これから、兵法の道を大工の道に喩え、書きあらわす。大工はおおいに工むと書く。兵法の道も多いに巧むが肝要であるので、大工に喩える。


兵法を学ぼうと思うものは、この書の趣旨をよく思案して、弟子は糸だと思って(針の)師につながり、続く気持ちで絶えず稽古に励げめ。 大将は大工の棟梁と同じ。天下の尺度をわきまえ、国家の尺度を糾し、家の尺度を知るのが棟梁の道である。




大工の棟梁は堂塔伽藍の尺度を覚え、宮殿楼閣の図面を知り、人々を使って家を建てる。それは大工の棟梁も武家の頭領も同じである。家を建てるには木を配り、まっすぐで節がなく、見かけの良い材木は表の柱とし、少し節があり、それでも真っ直ぐな木は、裏の柱とし、多少弱くても節がなく美しいのは、敷居、鴨居、戸障子などとし、節があって歪んでいるものは、その木の使い方を考察し、木をよく吟味し使用すればその家は長持ちする。


材木の中でもフシが多く歪んでいて、弱いのは足場にでも使い、後には薪にでも使うのがよい。棟梁が(人手)大工を使うにあたっては、腕前の上中下を知り、あるいは床回り、あるいは戸障子、あるいは敷居,鴨居、天井というように、それぞれに応じて使い分け、腕の悪いものには根太をはらせ、もっと悪いものには楔を削らせるなど、人(大工)を見分けて使えば仕事の能率が上がって、手際よく行くものである、仕事のはかがゆき能率がよく、妥協が無く、余裕があって、人の仕事に使う神経の上中下を感じ、(時をみて)励まし、無理(押し付けない)を知る。


こうした事を心得ているるということを、棟梁としての心得があるというのである。兵法の道理もまたこの様なものである。 兵卒は大工である。自ら道具を研ぎ、いろいろな金具のタガをこしらえ、大工箱に入れて持ち、棟梁のいいつけを聞いて、柱、梁を手斧で削り、床、棚を鉋で削り、透しものを彫り、規矩を糺し(寸法をただす)、手のかかる隅々まで立派に仕上げるのが大工である。図面の上でデザインし、自らの手にかけてその仕事を終える。


 それから、大工の下心得はよく切れる道具を持ち、暇をみてこれを研ぐことが肝要である。その道具を使って棚、机、又は行灯、爼板、鍋の蓋までも器用に工作するのが大工である。吟味しなければならん。大工の(基本的な)心得は仕事が後になって歪まないこと、止めを合わせること、カンナで上手く削ること、磨り減って使い物にならないような物を作らない事。これが肝要である。兵法の道をを学ぼうと思うならば書き記したことども、一つ一つ念をいれて、よく吟味しなければならない。








兵法を五つの道に分けて、巻ごとにその概要を書き、地、水、火、風、空に分け、五巻として表すものである。 地の巻においては、兵法の道のあらまし、我が流の見方を説いている。剣術だけをやっていては,本当の兵法の道を得ることはできない、大きいところから小さいところを知り、浅い所から深いところに至る、まっすぐな道を思い描くことになぞらえて、最初の巻を地の巻と名付ける。


 第二は水の巻である。水を手本とし、心理を水に映す気持ちである。水というものは四角い容器にも、丸い容器にも従って形を変えたり、1滴ともなり、大海ともなる。水には青々とした深い淵がある、その清らかで、理解しやすい部分から我が一流の事をこの巻に書き顕す。剣術の道理を理解すれば、1人の敵に自由に勝ち、世のすべてに勝つこともできる。




1人に勝つということでは、1人の敵であろうと、千万の敵であろうと同じことである。将たる者の兵法では、小さいことから大きいことを洞察する。一尺の金属から大仏を建立するのと同じである。このようなことは、細かく表現できるものではない。一を以って万を知ることが、兵法の道理なのである。我が一流のことをこの水の巻に表す。


 第三は火の巻である。この巻では戦いのことを書く。火は、大きくなったり小さくなったりする。それになぞらえて戦いのことを書くのである。戦いの道は、個人と個人との戦いも、集団をもっての戦いも同じである。こころを大きくして、細部に注意を向け、よく研究してみなければならない。 ただし大きなところは見えやすく、小さいところは見にくい。というのは多人数でやることは直ちには戦術を転換できない。1人のことは、個人の心ひとつですぐ変わるから、小さいところがわかりにくい。こうしたこともよく研究することである。 


この火の巻に書き表したことは、瞬間的に決まることであるから、日々に習熟して、平常心で向かえるように、心が動揺しないことが兵法の究所である。こうしたことから、戦い、勝負のことを火の巻として書き表す。 第四は風の巻である。この巻では、我が一流のことでなく、世間の兵法について各流派のことを書く。風というのは、昔風とか、今風とか、それぞれの家風などのことである。世間の兵法について、各流派の本質を書きあらわすのである。これが風である。他流派の本質をよく知らなければ、我が兵法の道を体得出来ない。




道の鍛錬をして行くのにも、外道という事がある。自分では上達する道を行っていると思っても、本当の道ではない、間違った道を行くと、始めの少しの歪みが、後には大きな歪みとなるのである。調べるべきことである。他流派の兵法では、剣術を極めれば兵法が極まると思っているようだ。もっともだが誤りである。我が兵法の剣術の理と技においては別格と考えて貰いたい。世間の兵法を知らしめるために、風の巻を書き表すものである。


 第五は空の巻である。この巻を空の巻と名付けるのは、他流が奥とか口とか、口幅ったく言っている事の本質を一口で言い表すためである。他流は道理をつかんだ積もりでいて、本当の道理から離れている。兵法の道とは、(空の状態で)自然に自由があり、自然に素晴らしい力を得、時期が到来して、拍子を知り、自然に打ち、自然に当たる、これがみな空の道である。




自然に実の道に入る事を空の巻に書き留める也。 奈良本辰也、五輪書入門より 『物事の道理がわからなくなったところを”空”だとしているようだが、これは本当の空などではなく、ただの迷いこころにすぎない。 武士たるものは、兵法の道をしっかりと体得し、その他の武芸を良く学び、武士としての正しいありかたについてよく心得、 心迷わすことなく、朝に夕につとめ、心、意の力を養い、観、見の二つのちからをみがき、迷いの雲を抜け出たところこそ 真の"空”なのだと悟ら無ければいけない』 空に対する私の解釈 一番適格な動きが必要な”体”にも,状況分析を瞬時にする”心”にも、朝鍛夕錬に依って情報が詰まっていて、必要に応じて一番適格な情報を取り出し得る。それらの過程が瞬時に行われる。


戦いでは、それらの情報処理の遅れが死に繋がる。身も心も、情報に満ち満ちていて、なお且つ適格な情報の処理がスムースに行われる状態を”空”といっていると思う。
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一 此一流二刀と名くる事 二刀(二天一流)と名付けるのは、武士は、将も兵卒もともに、二刀を腰に付けて役職を持つ。昔は太刀、小刀と云ふ。今は刀、脇差、と云ふ。武士たるもの、此の両刀を持つ事、細かに書顕す必要が無い。日ノ本の我が朝に於ては、何時からか腰に刀を帯びるのが武士の形式である。、此二つの利を(忘れかけた利)知らしめんために、二刀一流と云なり。鑓、長刀(なぎなた)その他の武具を使う者でも、刀は帯びる。一命を捨てる時は、道具を残さず役に立てぬまま、腰に納めて死する事、本意であるはずがない。




我が流の道では、初心の者には太刀、(小)刀を両手に持って稽古をする、両手に物を持っては、左右ともに自由自在とは叶ひがたし。故に太刀を片手にて取り習はるす。鑓、長刀、大道具は別にして、刀、脇差に於てはいづれも片手にて持つ道具である。太刀を両手にて持って不都合な事は、第一馬上にて不都合、かけ走るとき不都合、沼、ふけ(深い田)、石原、険しき道、人ごみに不都合。左に弓、鑓を持ち、其外何れの道具を持っても、皆片手にて太刀を使ふものなれば、両手にて(1本の)太刀を構ふること実の道(本当に有利な)にあらず、若し片手にて打殺し難き時は、両手にても打留るべし、手間の要る事にても有るべからず(両手でうち殺せ)、先ず片手にて、太刀を振り憶え、二刀として太刀を片手にて振り覚ゆる。


初て取りし時は、太刀重くして振り回し難きものだ。それは、太刀に限らず万事初めて取り付ける時は弓もツガイがたし、長刀も振りがたし、其道具道具に慣れて、弓も力強くなり、太刀も振りつけぬれば道の力を得て振り良くなる、太刀の道と云ふ事、早く振るにあらず、第二水の巻にて見るべし、太刀は広き所にてふり、脇差はせまき所にてふること、先づ道の本意である。二天一流においては、長きにも勝ち、短きにも勝つ。に依て太刀の寸を定めず。


いずれにても勝事を得る心、一流の道なり。太刀一つ持たるよりも二つ持ちて善しき所は、多勢と一人して戦ふ時、又取り籠もり者(篭城者)などの時によきことあり、このような儀今委しく書顕すに及ばず、一を以て万をしるべし、兵法の道行ひ得ては一つも見えずと云ふ事なし、よく吟味有べきなり。

宮本武蔵「五輪書」水之巻


兵法心持の事


兵法の道において、心の持ち方は常に平常心である。平時も戦う時も少しも変わることなく、心を広く素直に持ち、緊張せず弛ませず、執着しないように心を落ち着かせ、静かに働かせ、その働きの一瞬も止まることがないよう、よくよく心得よ。

まわりが静かであっても、それに釣られてはならない。せわしない時は動じてはならない。心は身体に惑わされてはならない。身体も心に影響されてはならない。心に用心をし、身体には用心をしない。


心の働きに不足、余りが無いようにし、外見の心は弱く見せても内心は強く、人に心を見透かされないようにして、身体が小さい人は心を大きく持ち、身体が大きい人は細やかな心持ちを忘れず、身体の条件に関わらず心を素直にして、楽な方に流れないように心掛けることが肝要だ。

心を濁らせず広く持ち、自在に知恵を出す。知恵も心も一心に磨くことを心掛けよ。知恵を磨き、物事の善悪を知り、色々な芸能、技術を知り、世間の嘘を見破れるようになって後、ようやく兵法の知恵が得られる。兵法の知恵はそれらの知恵を凌駕しているものだ。いくさの場で戦況がせわしくなった時でも、兵法の道理を極めて動じない心を持つ事。よくよく考えて欲しい。




兵法の身なりの事


敵と向かう時、顔は俯かせず、上げ過ぎず、斜めにせず、歪ませず、目をきょろきょろさせず、顔を顰めず、眉に力を入れて目玉を動かさず、瞬またたきを抑えて、遠くを見るような目で、落ち着いて眺め、鼻筋を通す様に真っ直ぐ立ち、少し顎
あごを出す感じにする。

首筋を伸ばし、うなじに力を入れ、肩から全身に気を回し、両肩は自然に垂らし、背筋をぴんとし、尻を突き出さずに、膝から下に力を充実させ、腰が屈まないように腹に力を入れ、楔くさびを絞めると言われるところの脇差しの鞘に腹を押しつける感じで、帯がまないようにするという古来の教えに従え。

全てに於いて、兵法をやるからにはこの身勢を常に保つことが大事だ。よく考えて工夫すべし。


兵法の眼付と云ふ事



兵法には、敵に対して目付
めつけということがある。それは、視野を大きく広く見ることである。
目付には、観かんと見けんの二つの目付がある。観は心で見て、見は眼まなこで見る事である。

兵法では、心で察知するということを重要視して、実際に目で見ることはその次ぎにし、近いところも遠いところも同様に感じなくてはならない。
敵の太刀の振られようを察知し、それをいちいち見なくとも良いようにすることが重要だ。工夫せよ。

この目付の重要さは一対一でも多数同志(あるいは一対多数)の戦いでも同様だ。目玉を動かさないで両脇を見るようにせよ。これは戦況がせわしくなると出来なくなる。よってこの書き付けを覚えておいて、常にこの目付を取り、どんな状況でもそれを忘れてはならない。よくよく吟味せよ。





太刀の持様の事


刀を持つ時は、親指と人差し指を浮かす気持ちで持ち、中指は絞めすぎたり緩めすぎたりしないようにして、薬指と小指で絞めるように持つ。
手の内(この持ち方)には隙間があってはならない。敵を必ず殺すんだという気持ちで刀を持て。敵を斬り殺す時もこの手の内をそのまま保ち、手の一所に力が入りすぎるなどあってはならない。

もし敵の刀を『張る』時、受ける時、当てる時、抑える時でも、親指人差し指に少し力を入れる事があるが、とにかく、そのまま斬るんだと決めて刀を持て。
試し切りをする時でもこの兵法で斬る時でも、人を斬るというこの手の内は同じなのだ。
基本的に、刀にも、手にも、『居着く』ということが無いようにせよ。居着くと攻撃をさばけず死に至り、居着かず自由に刀を振れれば死地に生を見いだせる。良く心得よ。











足づかいの事


足の運びかたは、爪先を少し浮かせて踵を強く踏むこと。足使いは時に応じて大きく・小さく・遅く・早くするが、常に普通に歩く様にする。

飛ぶ、足を浮かせる、腰を落として踏みつける、の三つはやってはいけない。
兵法の大切なことに『陰陽の足』という教えがある。これは当流(二天一流のこと)にとっても重要なことだ。


陰陽の足使いとは、片足だけを動かしてはならないということだ。
斬る時、引く時、刀を受ける時でも、陰陽の両極を交互に渡る様に、右左右左と踏んでいく。何度も言うようだが、どちらかの片足だけ中心にして、スキップを踏むような足運びをしてはならない。良く吟味して欲しい。








宮本武蔵


『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利、16歳で但馬国の秋山という強力の兵法者に勝利、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利したと記述される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは従来、父無二の旧主君であった新免氏が宇喜多秀家配下であったことからそれに従って西軍に参加したと言われてきたが、父の新免無二が関ヶ原の戦い以前に東軍の黒田家に仕官していたことを証明する黒田家の文書(『慶長7年・同9年黒田藩分限帖』)が存在することから、父と共に当時豊前を領していた黒田如水に従い東軍として九州で戦った可能性が高い。この説に従う黒田家臣・立花峯均による武蔵伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』(『丹治峯均筆記』・『武州伝来記』とも呼ばれる)では、黒田如水の軍に属して九州豊後の石垣原(今の別府市)で西軍大友義統軍との合戦に出陣し、出陣前の逸話や冨来城攻めでの奮戦振りの物語が語られている。




『五輪書』には「廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるという事なし」と記述される。天正12年(1584年)に武蔵が生まれたと考えると慶長9年(1604年)のことになる。「天下の兵法者」は、『新免武蔵玄信二天居士碑』(小倉碑文)に記された「扶桑第一之兵術吉岡」、すなわち吉岡一門と考えられる。この戦いは、文芸作品等でさまざまな脚色がされ有名である。




武蔵が行った勝負の中で最も広く知られているものは、俗に「巌流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に豊前国小倉藩領(現在は山口県下関市域)の舟島(関門海峡に浮かぶ巌流島)で、岩流なる兵法者(一般的に「佐々木小次郎」と称される人物)と戦ったとされるものである。
大坂の役(慶長19年(1614年) - 元和元年(1615年))では従来、豊臣方として参戦したと通説の如く語られるが、根拠のない俗説である。実際は水野勝成の客将として徳川方に参陣し、勝成の嫡子・勝重(のち水野勝俊)付で活躍したことが数々の資料から裏付けられている。




その後、姫路城主本多忠刻と交渉を持ちながら活躍。明石では町割(都市計画)を行い、姫路・明石等の城や寺院の作庭を行っている。『海上物語』ではこの時期、夢想権之助(神道夢想流開祖)と明石で試合したことが伝えられている。(同記事のある『二天記』ではこの試合は江戸でのこととされるが、この記事は『二天記』の原史料である『武公伝』には記載されていない。)


元和の初めの頃、水野家臣中川志摩助の三男三木之助を養子とし、姫路城主本多忠刻に出仕させるが、三木之助は寛永3年(1626年)に亡くなった忠刻に殉死する。宮本家は三木之助の実弟が後を継ぎその後も存続したが、同じ年に播磨の地侍田原久光の次男伊織を新たに養子とし、宮本伊織貞次として明石城主小笠原忠真に出仕させている。伊織は寛永8年(1631年)20歳で小笠原家の家老となっている。


寛永15年(1638年)の島原の乱では、小倉城主となっていた小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である中津城主小笠原長次の後見として出陣している。乱後に延岡城主の有馬直純に宛てた武蔵の書状には「拙者も石ニあたりすねたちかね」と一揆軍の投石によって負傷したことを伝えている。また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合したことが伝えられている。


吉原遊廓の開祖庄司甚右衛門の記録である青楼年暦考(庄司家家譜)に、寛永期の記録として、江戸に滞在しており、新町河合権左衛門の置屋にいる遊女雲井と馴染みで、島原の乱の直前に雲居に指物の袋を依頼、これを受け取ってから騎馬で出陣した旨の記載がある。


「宮本武蔵は新町河合権左衛門内雲井という女郎の相方にして遊ばれけるが、寛永十五年島原一揆の時、黒田様の御陣へ見舞に参るとて、暇乞いながらかの雲井が許に来られ、かの女にさし物を縫はせ、勇々敷出立、直に騎馬にて肥前へ参られけるよし」当時の吉原は江戸城の東、現在の日本橋人形町近辺に位置していた。また当時吉原遊郭の自治のため並木源左衛門、山田三之丞が武蔵の弟子となって柔術などを習っていたとの記載もある。


寛永17年(1640年)熊本城主細川忠利に客分として招かれ熊本に移る。7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、家老以上の身分でなければ許可されない鷹狩りが許されるなど客分としては破格の待遇で迎えられる。 同じく客分の足利義輝遺児足利道鑑と共に忠利に従い山鹿温泉に招かれるなど重んじられている。


翌年に忠利が急死したあとも2代藩主細川光尚によりこれまでと同じように毎年300石の合力米が支給され賓客として処遇された。『武公伝』は武蔵直弟子であった士水(山本源五左衛門)の直話として「士水伝えて云、武公肥後にての門弟、太守はじめ長岡式部寄之、沢村宇右衛門友好、その他、御家中、御側、外様、及陪臣、軽士に至り千余人なり」とこぞって武蔵門下に入ったことを伝えている。この頃余暇に製作した画や工芸などの作品が今に伝えられている。




寛永20年(1643年)熊本市近郊の金峰山にある岩戸の霊巌洞で『五輪書』の執筆を始める。また、亡くなる数日前には「自誓書」とも称される『獨行道』とともに『五輪書』を兵法の弟子寺尾孫之允に与えている。


正保2年5月19日(1645年6月13日)千葉城の屋敷で亡くなる。墓は熊本市龍田弓削にある通称武蔵塚。北九州市手向山に養子伊織による武蔵関係最古の記録のひとつである『新免武蔵玄信二天居士碑』、通称「小倉碑文」がある。
武蔵の兵法は、初め円明流と称したが、『五輪書』では、二刀一流、または二天一流の二つの名称が用いられ最終的には二天一流となったものと思われる。後世では武蔵流等の名称も用いられている。熊本時代の弟子に寺尾孫之允・求馬助兄弟がおり、肥後熊本藩で二天一流兵法を隆盛させた。また、孫之允の弟子の一人柴任三左衛門は福岡藩黒田家に二天一流を伝えている







5.02.2012

前田光世



ブラジルと日本に虹の橋を架けた国士、前田光世。

クレーシー柔術は、コンデ・コマこと前田光世から始まった。









前田 光世(まえだ みつよ、男性、1878年12月18日 - 1941年11月28日)は、講道館黎明期の柔道家(7段)である。ブラジル帰化後の本名はコンデ・コマ(Conde Koma)。

青森県中津軽郡船沢村(現・弘前市)出身。1895年、青森県第一中学校(現・青森県立弘前高校)を中退して上京し、翌年早稲田中学(現・早稲田高校)に入学する。入学後は相撲や野球で名を馳せたが、東京専門学校(現・早稲田大学)に柔道場が新設されたことをきっかけに柔道を始め、1897年6月には講道館に入門し、柔道に打ち込む。入門してからは講道館四天王の1人である横山作次郎などに鍛えられ、めきめきと頭角をあらわし、昇段審査(初段)の時には嘉納治五郎講道館初代館長の命により前田のみ15人抜きを命ぜられる(見事これを達成)。またこの頃、東京専門学校に入学するも1904年に中退した。
4段位にあった1904年11月、柔道使節の一員として渡米。滞在費稼ぎや柔道普及のために異種格闘技戦を断行、対戦相手を求めてアメリカ中を周りボクサーやプロレスラー、拳法家などと戦う。なおその頃に、自分の名前を栄世(ひでよ)から光世に改名している。ある日、親日家であったルーズベルト大統領の計らいでホワイトハウスにて試合を行うも、団長を務めていた講道館四天王の1人富田常次郎が、体重約160㎏の巨漢選手に敗れてしまう(これに関して前田は、「ルールの違いによって敗れた」「富田は苦戦の末引き分けた」など、資料によって記述の詳細が異なるため正確なところは判然としないが、いずれにせよ結果が芳しくないものであったことは確かなようである)。
日本柔道の威厳を示すべく雪辱を誓った前田はアメリカに残り、1000ドルという賞金を餌に再びアメリカ全土を周り、挑戦してくるボクサーなどを片っ端から退ける。アトランタでは世界一の力持ちと恐れられたブッチャー・ボーイさえも破っている。




その後はメキシコやヨーロッパなど世界各地で異種格闘技戦を行い、ブラジルに辿り着く。この間柔道衣着用の試合では1000勝以上し、終に無敗であった。なお興行試合に出たことで講道館を破門されたとの説が流布しているが、その記録は確認されていない
行き着いた最後の地はブラジルである。治安の悪いブラジルにガスタオン・グレイシーが移民としてやって来た。ガスタオンの子供の1人、カーロス・グレイシーはやんちゃだったため、ガスタオンは前田に「柔術で鍛えてくれ」と依頼した。前田は、柔道改め柔術と護身術を教えた。


カーロスは末っ子のエリオと共に稽古に励んだ。エリオは直接前田に柔術を習った訳ではないが、前田の柔術を更に改良し、誰にでも使いこなせる術(すべ)として技術体系を完成させた。これが後の世に言われるグレイシー柔術である。エリオ・グレイシーもまた、前田と同じ様に自分の流派(グレイシー柔術)を広めるため後に異種格闘技戦を行い、柔道家の木村政彦とも闘う事となった。
また、グレイシー家以外にもブラジルにおいて柔道を教えており、その勢力前田派はブラジル柔道創世期、四大派閥の1つであった。
1930年、コンデ・コマを本名にしてブラジルに帰化した。フランス大使の娘と結婚する。
1941年11月28日、入植先のアマゾンで死亡。最期に残した言葉は「柔道衣を持って来てくれ」であったという。死後、講道館より七段を贈呈され、また弘前公園には前田の功績をたたえた石碑が建てられている。墓はブラジル・パラー州の州都であるベレンにあり、リョート・マチダの父親町田嘉三(空手家)によって管理されている。
死後70年近く経った今でも、史上最強の柔道家として前田光世を推す評論家は少なくない。






KONO Yoshinori


身体操法


甲野善紀身体操作術


甲野善紀身体操作術








甲野善紀

甲野 善紀(こうの よしのり、1949年 - )は、東京都出身の武術を主とした身体技法の研究家。明星高等学校卒。 東京農業大学畜産学科中退。古武術に関する著書多数ある。


人と口をきくのもままならない幼少期を過ごした甲野は、大学に入り、ひよこの雌雄選別において雄のひよこが生きたままバケツに放り込まれそのまま足で踏み潰されて殺されてゆくという、高度経済成長を続ける効率優先の厳しい現実にショックを受け、「人間にとっての自然とはなにか」を追求する過程で武術に出会う。 その後武術のみの世界も一つの効率優先とみなして身体技法一般の研究者に脱皮する。(以上は、甲野自身が著書等で述べていることである)
合気道(合気会の山口清吾)、根岸流手裏剣術(四代目・前田勇)、鹿島神流(野口弘行)などを学び、1978年に自分自身が納得いく武術の動きの研究のため、「武術稽古研究会松聲館」を設立(同会は2003年に解散)。武術だけにとらわれない身体運用法一般の研究者となる。基本的に組織を作らない(師弟関係、弟子を採らない)。



甲野善紀は、独自に古文書、松林左馬助無雲の『願立剣術物語』、無住心剣流・小出切一雲、針ヶ谷夕雲の『天真独露』『無住心剣術書』、三代目真里谷円四郎語録、川村秀東の『前集』『中集』、丹羽十郎左衛門の『天狗芸術論』、金子弥次左衛門の『梅華集』、宮本武蔵の『五輪書』、千葉周作の『剣術物語』その他新陰流、起倒流柔術の加藤有慶、肥田式強健術の肥田春充、白井亨、中井亀治郎、弓道の梅路見鸞、整体の野口晴哉などから研究し、新体道の青木宏之、振武舘の黒田鉄山、沖縄古伝空手心道流の宇城憲治等と交流。後に確立した「うねらない、ためない、ひねらない」動きや固定的な支点に依らない動作、いわゆる「ナンバ」の動きなど、従来のスポーツ運動論にはなかった身体運用法を、様々な武術・武道・スポーツ・異業種との交流からヒントを得て研究している。甲野の紹介する技術は、安定している重心 (バランス) をわざと不安定にする事によって、軽い力加減で動かせるようにするもの (重いドラム缶を斜めにして転がすようなもの。) などで、たびたび「不安定な状態は、最も身軽な状態である。」と述べている。なお、こういった身体運用法については桑田真澄を初めとして卓球の平野早矢香、バスケットボールの小磯典子などが活躍し、甲野との面識はないものの末續慎吾が「ナンバ走り」を研究して世界陸上200mで銅メダルを獲得したと言われたこともありスポーツの各方面から注目され、ラグビーの平尾剛などが研究している。


親友は精神科医の名越康文、深く傾倒している人物は、長期的には野口整体の身体教育研究所の野口裕之、武術関係は数年ごとに変わるが2004年~2006年は国際韓氏意拳総会日本館の光岡英稔である。他に解剖学者の養老孟司などの科学者や宇宙飛行士の野口聡一、麻雀の桜井章一、思想家の内田樹、そのほか有名無名の音楽家や職人など広いジャンルでの交流がある
現代農業や栄養学のあり方に疑問を持ち、東洋医学などの各種健康法や宗教などの探求を続けていた21歳のとき、人間の運命は完璧に決まっているが同時に完璧に自由だ、という確信を得、その確信を体感レベルにまで深めるために武術に取り組むことにした。30年の実践ののち、人間の運命は完璧に決まっているからこそ自由だ、という認識に至ったという。
介護の番組などにも出演。合気道や柔術などの応用で、座っていたり寝ている状態の人間 (介護される者) を楽に動かしたり、誘導する方法を紹介する (交流があった、黒田鉄山の誠玉小栗流殺活術「抱き起こし」など、似ているものもある) 。医療・介護関係者から、 「介護をわかっていない。介護を行う人間が、ほとんど筋力を使わず、自己の体重や、介護対象者の体重の力だけで対象者の体を動かすと、介護を行う側は楽になるが、対象者は重心 (体のバランスの中心) がくるってしまう為、若干怖い思いをさせてしまう」といった意見があった (但し、甲野の技術の「一旦不安定にする」という面を危険視・心配しているもので、「技術自体が使えないものである」とは述べられていない) 。「介護は精神的、体力的な負担が非常に大きい為、介護される人間だけでなく、介護する人間の負担もなるべく軽減する必要がある。」と、いった考え方は広く普及しており、介護福祉士・介護支援専門員の岡田慎一郎などは甲野が紹介した技術を使用し普及に努めている。 岡田慎一郎曰く「古武術的な発想では、筋力をつけるのではなく、「もともとあったのに気づかなかったチカラ」を有効活用することをめざします。「もともとあったのに気づかなかったチカラ」とは、重力だったり、身体の「構造」がもたらすものだったり、様々です。ともかく、筋力をアップさせるのではなく、効率的な身体の使い方、チカラの生み出し方を工夫する、というのが古武術的な発想の大きな特徴ということができます。 (医学書院,古武術介護入門・本文より) 」
NHKによる各介護関係の番組での体験者、および、カルチャーセンター講座、リハビリテーションセンターでの講演の受講生の声は、「被介護者も楽で安心感がある」という。
2006年7、8月NHK教育テレビ・まる得マガジン『暮らしのなかの古武術活用法』講師として出演。
8月24日生活ほっとモーニング もっと知りたい 古武術の知恵で安心介護(NHK総合テレビ)出演