Translate

4.29.2012

大山倍達(최 영의)


大山 倍達(おおやま ますたつ、1923年(大正12年)7月27日(旧暦6月4日) - 1994年(平成6年)4月26日)は、男性武道家・空手家であり、国際空手道連盟総裁・極真会館館長。


極真空手十段。別名:マス大山。韓国名は崔 永宜(최 영의)。



1970年代に週刊少年マガジンに連載された劇画『空手バカ一代』でも、主人公として取り上げられ有名になった。


幼少期は満州と朝鮮半島で育ち、16歳で日本一の軍人を志し、山梨県の山梨航空技術学校(現日本航空高等学校)に入学。きつい肉体労働でアルバイトをしながら学校へ通い、当時難関であった陸軍士官学校へ入学する為の受験勉強も少ない時間の中で行うという苦学生の身であった。

山梨少年航空技術学校卒業後に陸軍士官学校を受験するも失敗、挫折する。だが、当時拓殖大学学生であった木村政彦が、柔道界最高の栄誉であった天覧試合優勝を成し遂げた事に感動し、1941年春、同じ拓殖大学に入学。同大学では司政科に在籍して、政治家を志す。石原莞爾主催の東亜連盟に参加する等の活動をするも、同年末に太平洋戦争が勃発。在学中のまま少年兵として徴兵されるという大きな壁に直面し、政治家の志も挫折する。



早稲田大学高等師範部体育科(のちの早稲田大学教育学部体育専修)中退[注釈 1]。
1938年(昭和13年)9月に空手道を松濤館流の船越義珍に師事、その後松濤館流と剛柔流を主に学ぶ。終戦後は千葉を中心に民族運動に参加したとする説もある。



大山倍達は終戦前に海軍の「特攻隊」に志願したが終戦を迎えて出撃ができなかったという話があったがそのような事実はなかった。これは「空手バカ一代」の話からだった。また、「山篭り」で空手修行に励んだともいう。短期間ではあるが、1956年(昭和31年)に大東流合気柔術の吉田幸太郎から合気柔術とステッキ術も学んだ。その他、講道館柔道を曾根幸蔵九段に、・ボクシングをピストン堀口にそれぞれ師事。


1946年(昭和21年)6月に俳優の藤巻潤の実の姉である智弥子と結婚。このときの媒酌人は田中清玄。3人の女の子(留壹琴・恵喜・喜久子)をもうける。




1947年(昭和22年)に京都で開催された戦後初の空手道選手権で優勝。1952年(昭和27年)にプロ柔道の遠藤幸吉四段と渡米、1年間ほど滞在して全米各地で在米のプロレスラーグレート東郷の兄弟という設定(Mas. Togoのリングネーム)で空手のデモンストレーションを行いながら、プロレスラーやプロボクサーと対決したとされる。ビール瓶の首から上の部分を手刀打ちで切り落とした時、観客は驚嘆し、「Hand of God」「Miracle Hand」などと形容された。
帰国後、牛を素手で倒し(合計47頭、うち4頭は即死)、その映像は映画『猛牛と戦う空手』1954年(昭和29年)として公開された。




多くの武道家と交流し、また世界各国を巡りさまざまな格闘技を研究、空手の指導を行い、直接打撃制の空手(極真空手-フルコンタクト空手)を作り出した。
目白の自宅の野天道場、池袋のバレエスタジオ跡の大山道場を経て、1964年(昭和39年)国際空手道連盟極真会館を設立し、数々の名だたる弟子・名選手を輩出している。多くのフルコンタクト系各流派を生み出す元ともなった。豪快で情に厚い人物であったという。


1994年(平成6年)4月26日午前8時、肺癌による呼吸不全のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去。70歳没。


死亡直前の4月19日に立会証人5人の下で松井章圭を後継者とする旨等とした危急時遺言が作成されたが、公証役人がいなく、妻の智弥子に知らされていなかったことから大きな確認裁判へと発展。裁判では緊急時遺言は立会証人の中に利害関係者がいたこと、その利害関係者である立会証人が遺言内容の決定に深く関わったこと、立会証人5人が証人らと利害の対立する立場にある家族を排除する一方で大山を長期間に亘り取り囲むような状況の下で作成されたことなどから、大山が遺言者として遺言事項につき自由な判断のもとに内容を決定したものか否かにつき疑問が強く残ると判断されて、1995年に却下された。


また「韓国にも戸籍があり妻と三人の息子がいる」と言われたが、韓国の戸籍とされた書類は誕生日が違う事から、”同一人物ではない”と東京法務局と裁判所で認定された。







青年時代より、日本ボディビル界の祖と言われた若木竹丸の著書「怪力法」に影響を受け、戦後実際に若木よりウエイトトレーニングの指導を受けた。発達した胸筋と背筋のためレントゲン撮影では薄く影が出来るほどであったといわれる。またパンチ力の増強のために懸垂が有効と聞けば、最後は片手懸垂を連続20回こなすほど腕力があった。

その反面、若い頃の大山の空手は、荒々しく実戦を重視しすぎていたため、巻き藁突き・サンドバッグ・組手稽古・ボディビルの鍛錬ばかりして、型の稽古を嫌い、たびたび先輩方から苦言を受けるほどであった。判所で認定された。



空手修行時の大山を知る空手関係者は異口同音に「彼は力は強いし、組手や実戦は強いが型は下手」と語っていた。壮年期から晩年にかけて好んで剛柔流の「転掌」や「鉄騎」を演じるフィルムが現存し重厚で見事な型稽古を見ることができる。第5回オープントーナメント全世界空手道選手権大会において、最後の演武は創作型「円転掌」であった。


「空手バカ一代」の爆発的人気により、伝説的存在として「大山神話」が広まったが、実際のところ戦後の一時期においては、敗戦という心の痛手の為に、暴力団の用心棒稼業を行ったり、娼婦といちゃつく進駐軍の軍人を叩きのめして回り、指名手配されるなどの荒れた生活であった。進駐軍の憲兵隊から追われる身となった大山は一度逮捕されるが、すきを見て脱走。衆議院議員であった小沢専七郎の助力で身を隠す為に仕方なく身延山、それに引き続き清澄山に山篭りすることとなった。





松濤館の船越義珍から1年3か月で初段を得て以降、剛柔流の山口剛玄や曺寧柱(書籍における日蓮宗僧籍“曺七大師”)、大東流合気柔術の吉田幸太郎、朝鮮YMCAからアマチュア・ボクシング、ピストン堀口からプロボクシング(実際地方のボクシング興行で試合した経験もあり)、曾根道場での講道館柔道、若木竹丸や井口幸雄などからボディビルや重量挙げ、金城裕から沖縄空手との交流や空手界の古老との仲介役になってもらったりと、当時としても多岐に渡る格闘技、武術関係者との親交を深める。った。


また、武術修行のみならず、船越門下では実力随一であった船越義珍の三男「義豪」を見舞ったり、本部朝基の弟子、山田辰雄(書籍では由利辰朗)、太気拳の澤井健一、玄制流空手、躰道の祝嶺正献、虎殺しの空手家である山元勝王などとも親交を結んでいた。
「不世出の達人」「武道の神様」と称された合気道家の塩田剛三は拓殖大学の先輩にあたり、澤井健一と共に養神館本部道場で稽古を見学したこともある。



拓殖大学の先輩には、柔道史上最強と言われる木村政彦も居る。全日本選手権を13連覇し「鬼の木村」と怖れられた。大山は若い頃この木村の強さに惹かれ柔道の試合を観戦しているが、晩年「木村の全盛期ならヘーシンクもルスカも3分もたないと断言できる」とまで言っている。

この木村政彦との戦後の深い親交については『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也)に詳述されている。この作品は、木村政彦vs力道山戦で木村が力道山の八百長破りでKOされた時にリングサイドにいた大山の怒りと悲しみを克明に描写している。木村がリングに倒れた時、大山はその場で立ち上がってリングに上がり力道山を倒そうとするが、周りの人間が必死に止める。まさに最強の男たちの運命が交錯する歴史的瞬間であった。また増田は、柔道側からの新視点による綿密な取材から「大山は間違いなく日本屈指のストライカー(打撃格闘家)だった」と断言している。


著名な政治家とも親交があり、極真会館の初代会長を衆議院議員の佐藤栄作(極真会館設立の3か月後に首相に就任)、副会長を衆議院議員の毛利松平が務めた。衆議院議員であった

辻兼一や同じく衆議院議員の小沢専七郎は、戦後の荒れた時期、大山の庇護を行っていた。
1991年(平成3年)の第5回全世界選手権においてアンディ・フグが劣勢で負けが決まった時、フランシスコ・フィリォに止めが入ったが、フランシスコ・フィリォが構わず左上段回し蹴りをして、アンディ・フグが失神したのを見て「止めが入ってたとはいえ、倒された者は勝者にふさわしくない」としフィリォの一本勝ちを認めた。


大山は極真会館の門弟にとっては何者にも代え得ない絶対無比のカリスマであった。それゆえに1994年(平成6年)の大山の死は、上位クラスの指導者や大山の遺族などの間で“極真”の主導権や方向性・商標、そして大山の後継者の座を巡っての数多くの諍いが繰り広げられる直接の引き金となった。かくて、大山が作り上げた極真空手は内紛と分裂、さらには大山の“極真”の正当後継を自認する団体の乱立で現在に至るまで揺れ続けている。







4.28.2012

塩田剛三


塩田剛三(しおだ ごうぞう、1915年9月9日 - 1994年7月17日)



東京府四谷区(現・東京都新宿区四谷)出身の武道(合気道)家である。身長154cm、体重46kgと非常に小柄な体格ながら「不世出の達人」と高く評価され、「現代に生きる達人」「生ける伝説」とも謳われた。



1915年(大正4年)9月9日、医師・塩田清一の次男として生を享ける。本名・塩田剛(しおだたけし)。
新宿区立四谷第六小学校時代から剣道・柔道を習い、旧制東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)5年の時には、講道館柔道三段位を取得していた。

1932年(昭和7年)、18歳の時、府立六中校長の誘いで植芝盛平の営む植芝道場を見学。その際、植芝に手合わせを挑んで一瞬で投げ飛ばされ、即日入門を決意する。これ以後、内弟子時代も含めて約8年間、植芝のもとで修行に励んだ。その後拓殖大学を卒業。

1941年(昭和16年)から、親交の深かった畑俊六の秘書として、台湾、中国、ボルネオなど各地に派遣され、それぞれの地で勤務の傍ら合気道の普及に努める。

1946年(昭和21年)、帰国。茨城県岩間に居を構えていた植芝の下で、再び修行に打ち込んだ。



1955年(昭和30年)7月、ライフ・エクステンション(長寿会)主催の「日本総合古武道大会」において演武を披露し、同大会最優秀賞を受賞する。これにより、社会の合気道への関心は急速に高まっていった。

1956年(昭和31年)、政財界の後押しもあり、「合気道養神会」を結成して会派・養神館合気道を立ち上げ、道場を新宿区筑土八幡に設立した。

1961年(昭和36年)、植芝より合気道九段の免状を受ける(当時最高位)。植芝より直々に授与される免状は、これが最後になる。

1962年(昭和37年)、ロバート・ケネディ夫妻が養神館道場に来館。

1965年(昭和40年)、常陸宮夫妻、アレクサンドラ王女の前で演武。

1983年(昭和58年)、国際武道院より範士号をうける。

1985年(昭和60年)、国際武道院より合気道十段をうける。

1987年(昭和62年)、徳仁親王(現在の皇太子)が来館。

1988年(昭和63年)、国際武道院より合気道名人位をうける。

 


1990年(平成2年)、全日本養神館合気道連盟、国際養神会合気道連盟を設立。国内だけでなく欧米諸国に至るまで、合気道の普及を進めていった。

1994年(平成6年)7月17日、死去。78歳没。
塩田の遺した養神館合気道は、現在も国内をはじめ、世界各国で後進に受け継がれている。


時折、超人的としか表現のしようがない塩田の演武について「あんな事が出来るはずがない。ヤラセではないか。」と非難する意見が上がる。しかし、セミナーなどで実際に塩田と手を合わせた者からは、その技に対する否定的な意見は少ない。格闘家・岩倉豪は、セミナーで塩田に挑戦して左肩を外される重傷を負い、この時のことを「あれは超能力でもやらせでもなく、人体の構造を理解した本当の技術だ」と振り返っている。


合気道の理合について、師匠・植芝盛平が古事記や神道の用語を用いた難解・抽象的な説明をしていたのに対して、塩田は「中心力」「スピード・タイミング」と言った用語を使ってより分かりやすい説明を心がけた。また短期間で合気道の基本的な動きを身に付けられるよう、当時警視庁で指導していた高弟の井上強一と共に、6種の基本動作と構えを制定した。


戦後岩間で稽古に励んでいた塩田は、当時「神中組」を経営していた田中清玄に誘われて秘書となり、同じ時期ストライキに悩まされていた日本鋼管に出向いて社員・警備員に合気道を指導した。この時に得た収入や政財界との人脈が後の養神館設立に大いに役立ったが、一方で盛平・吉祥丸に何も言わずに岩間を去ったため、後年まで吉祥丸との間にしこりを残すことになる。


ロバート・ケネディ夫妻の前で行った演武では、塩田の強さを疑ったケネディの申し出によって同行していたボディーガードと手合せを行い、これを圧倒している(この時の様子は映像にも記録されている)。ケネディは後年、この時の様子について、「私のボディーガードがその小柄な先生に立ち向かっていったところ、まるで蜘蛛がピンで張り付けられたように、苦もなく取り押さえられた。その後でボディーガードは 『今朝は食事をしてこなかったものですから』と言ってはいたが、食事をしてきたら勝てたとは言わなかった」と回顧録「世界訪問旅行」に記している。



植芝の門下生になった後、塩田は反射神経を鍛えるため、水槽の中を泳ぐ金魚の動きに合わせて左右に動くという訓練を8年間に渡って続けていた。その結果、塩田は超人的な反射神経と集中力を体得、視界から消えるとまで評された体捌きを完成させたと言う。反射神経にまつわる逸話は多く、自動車にはねられそうになった瞬間無傷でかわしてのけたという証言も残っている。

「呼吸力を出すためには足の親指を地面に食い込ませるように立たなくてはならない」という持論を持ち、高弟安藤毎夫の証言によれば、塩田が靴を履いた状態で玉砂利の上を歩いたときの足跡は親指にあたる部分が特にへこんでいたという。


自らの技について塩田は、「実戦では当身が七分で技(投げ)三分」というモットーを師・植芝の教えとして度々語っていた。演武会においても、投技や組技だけでなく、相手の喉を指一本で突いて悶絶させたり、後ろからタックルしてきた相手に肩をぶつけて吹き飛ばすといった、多彩な当身技を披露している。





ある時、弟子に「合気道で一番強い技はなんですか?」と聞かれ、塩田は「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と答えたという。塩田自身は『日常、それ即ち武道』を信条としており、普段普通に道を歩いている時でも一切の隙が無かったと言われているが、生前弟子に対して「人が人を倒すための武術が必要な時代は終わった。そういう人間は自分が最後でいい。


これからは和合の道として、世の中の役に立てばよい」と語り、護身術としての武道の意義を説いていた。


柔道家・木村政彦は、拓殖大学の後輩に当たる。青年時代の木村はその実力から『拓大最強の男』と呼ばれ、「腕相撲では負けた事が無い」と豪語していた。それを聞いた塩田は腕相撲で木村に挑戦し、3回対戦して2回勝利したという。また、極真会館創設者・大山倍達も拓殖大学の後輩に当たり、その大山と共に太気拳創始者・澤井健一が養神館本部道場に見学に訪れたこともある。
前述の大山・澤井の他にも、プロレスラーの前田日明、ボクシングのマイク・タイソン、空手家の金澤弘和が養神館道場を訪れ、塩田の神技を高く評価した。



漫画『グラップラー刃牙』に登場する柔術家・渋川剛気の原型となった人物としても知られる。これは作者の板垣恵介が、塩田の内弟子であった三枝誠の自衛隊時代の友人であった縁から、生前の塩田と親交があったことに由来している。また板垣は、塩田の自伝「合気道人生」において、本名の板垣博之名義で挿絵を担当している。


板垣は、自身の著書で塩田の人となりについて、「才気のカタマリ」「爆笑した顔に狂気を感じた」「体中が地雷原のような人」と評している。また、板垣がある中国武術家と立ち合って惨敗した際、塩田に「その程度で済んで運がよかったと思え。二度と遊び半分の軽い気持ちで立ち合いに臨むな」と苦言を呈されたという。この言葉について板垣は「俺のところに道場破りに来たらその程度じゃ済まさないぞ、ということなのだろう」と語っていた。


作家の増田俊也は自著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の中で塩田と木村政彦の関係を親友と書いている。塩田は先に拓大予科に入学していたが2年間の内弟子生活で休学していたので同期として授業を受けていたのだ。2人は非常に仲が良かった。この作品は、塩田を柔道側からの新しい視点でとらえていて非常に興味深い資料である。

ブルース・リーを語る格闘家


ヒクソン・グレーシー



ブルース・リーを語るジェロム・レ・バンナ







4.25.2012

格闘技と武術: 柳 龍拳 VS 岩倉 豪

格闘技と武術: 柳 龍拳 VS 岩倉 豪: 柳はHPにて他流試合の相手を募集し、どの武道、格闘家の挑戦(PRIDE等の興行に出場を希望)も5万円で受けるとした。2006年3月には金額を10倍の50万円、柳が敗戦の場合返金という内容に変更。その後は、必要額はそのままで、負けた場合対戦者に100...

柳龍拳とは


サハリンに1941年ごろ出生。
小林大竜より大東流合気道を学んぶ。
北海道札幌市に自派の道場を開いている。
大東流合気道免許皆伝 10段 名人位
日本天心流合気道免許皆伝 10段 名人位
龍神秘伝流合気道免許皆伝 10段 名人位
龍神流気合術免許皆伝 10段 名人位
柳流武術気功 10段 名人位
柳によれば大東流合気道は、武田惣角を中興の祖とする大東流合気柔術や、植芝盛平を開祖とする合気道とは発祥が異なり、武田信玄の家臣(影武者)であった大東久之助の直系武術だとされる。
また柳姓は武田家直系の『姓』だと言う。
柳氏が武田姓ではないことや、家臣の武術を大名の子孫が受け継いたことになること等、不自然な点を指摘する向きもあるが、これについては、武田氏が後年居住していた伊勢神宮近辺の柳村に因んで改姓したこと、家臣と言っても(影武者という)異例の高い地位であったことを、説明としている。
2009年7月師の小林を逆破門と発表。名称の度重なる変更を理由としている。 尚、小林氏自体一切の露出がそれまでになく、この人物が存在していたのかどうかは不明。

相手に触れることなく倒すという映像も公開している。2011年5月現在「交流試合」を募集している。
武術ならびにこの技を以って、多くの他流試合を経験したと主張、ウェブサイトでも対戦者を募っていたが、公には後述する一試合のみが知られている。他流派代表宛に挑戦状を送りつけ、恐れて対戦しなかったと主張しているが、このような事実はなかったことが判明している。
気功師、霊能者としての顔も持ち、『不思議エネルギーの世界』誌にて、不思議研究所という民間団体の手に拠る物ながら、遠隔治療(電話を介しての気功治療)の実験もおこなった。除霊人生相談ヨガ教室などもおこなっている。
2011年、TBSのバラエティ番組にてヴァンダレイ・シウバと相撲ルールで戦う予定であったが、シウバがケガによる棄権を申し出たため、代役として菊田早苗と対決を行った。結果は押し出しにより敗退。


柳 龍拳 VS 岩倉 豪


Collaborn


柳はHPにて他流試合の相手を募集し、どの武道、格闘家の挑戦(PRIDE等の興行に出場を希望)も5万円で受けるとした。2006年3月には金額を10倍の50万円、柳が敗戦の場合返金という内容に変更。その後は、必要額はそのままで、負けた場合対戦者に100万円が支払われるというように、記述が変わっていった。
2006年10月6日、インターネット上の大手サイト探偵ファイルが柳龍拳に挑戦する記事を掲載する。柳は挑戦を受けることを表明。途中、対戦者変更などの軋轢がありながらも、探偵ファイル側に立つ格闘家=岩倉豪と柳龍拳は11月26日に対戦するのが決定する。岩倉は当時36歳で空手・ブラジリアン柔術の経験者、柳は当時65歳で合気によって戦うという、異色の他流試合に注目が集まった。この試合は目潰し・金的および粘膜への攻撃禁止、グローブやマウスピースを用いない、素手に素面のルールであった。試合当日、会場となった札幌の公共体育館、きたえーる武道場には、500を超える見物者が来場。入場制限により200名ほどが入れず、窓から観戦した。